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若宮八幡(若宮社跡) 塩尻市洗馬 芦ノ田

■ 本稿は、『菅江真澄民俗図絵に見る雁田神社』の続篇です。

若宮・若宮八幡

 菅江真澄の紀行文『すわの海』に

十七日 今井の郷にまかりて、(中略) その帰るさに兼平明神の御社に詣でて、(中略) はた芦ノ田にかかれば、小さき瑞垣ありけるは、若宮の宮代とて仁徳天皇を崇め奉るとかや。御社の中には、雄元の形を(ママ)斗の石にて刻み奉ると里人の言えり。
信濃史料刊行会『新編 信濃史料叢書』

 とあり、今井の兼平明神(現在の續麻(つうそ)神社・今井神社)から芦ノ田の若宮を参拝したことが書いてあります。また、上文の挿絵として粉本稿〔雁田明神〕があり、添え書きがあります。

松本の里近き所に芦ノ田と言う村に祭る若宮八幡も大なる石の雄元也。なべて道祖神とて国々にある也。
内田ハチ編『菅江真澄民俗図絵(上)』

 「大なる石の雄元」とは必見と、「芦ノ田」がどこにあるのか調べることにしました。

芦ノ田

 松本市今井(旧今井村)周辺を探すも空振りに終わってしまえば、行方不明同然となりました。ところが、「芦ノ田」のみで検索すると、塩尻市の「芦ノ田公民館」があっさりとトップに表示しました。

釜井庵
菅江真澄が滞在した釜井庵(吊し雛は8月7日まで展示)

 地図で見ると菅江真澄が長期滞在した「釜井庵」の近くですから、もうたぐり寄せたも同然です。
 それを確固たるものにすべき、今井村から芦ノ田村までの道のりを『Google マップ』で調べると、4.1kmの道のりです。あくまで現在の道路ですが、「兼平明神の御社に詣でて…芦ノ田にかかれば」はまったく無理のない道程となりました。

〔ルート〕を使用。約53分。

洗馬村芦ノ田 「明治四十三年測図昭和六年修正測図及修正縮図」とある五万分一地形図『塩尻』では「芦ノ田」の上(北)に役場がありますから、旧洗馬村の中心地が芦ノ田ということになります。続けて、この範囲内にある三箇所の鳥居を『Google マップ』で調べると、…何れも該当しません。

 仕方なく芦ノ田公民館の前からストリートビューで走ってみると、「芦野田地区散策道観光案内図」があります。「しめしめ」と拡大すれば「若宮さま」が読め、当確(当地確定)となりました。

若宮社跡(若宮さま)参拝 '22.7.9

 第一目的地とした塩尻市立図書館洗馬分館は、「洗馬公民館」の看板もある洗馬農村環境改善センター内に併設されていました。さっそく、事前調査ということで『洗馬村誌』なるものがないかと尋ねますが、「現在その準備をしている」との話で、書架には同類の本もありません。
 これで若宮八幡の詳細を手にする術が消えたので、徒歩で第二目的地へ向かいます。

芦野田散策道観光案内図 ふるさとづくり推進会議が設置した『山なみ遥かいにしえの道 芦野田散策道観光案内図』の前に立ちますが、若宮さまはあっても現在位置と方角が書かれていません。これは承知していたので、ここへ来る道中に仕入れていた「若宮さま」への道順を思い出しながら、その先へ向かいます。

若宮社跡

若宮社 「若宮さま」は、「若宮社跡」碑として目の前にあります。字の通り跡形も無いようですが、それでも「石の雄元」が草の中に埋もれているのではないかと踏み込めば、左方に、アッと驚く菅江真澄の世界が…。
 「芦ノ田にかかれば、小さき瑞垣ありけるは、若宮の宮代とて…

 しかし、若宮社自体は「跡」と言うことなので、この祠は境内社ということが考えられます。そこで、何とか関連付けようと祠の周囲に目を光らせますが、「雄元」らしき石はありません。祠の中に安置してある可能性がありますが、さすがに開扉することはできません。また、昼時とあって(でなくとも)人通りが絶えていますから、聞き込みもできません。
 「ここまで来れば釜井庵へ」と、祠を隠すように覆う杜を振り返りつつ後にしました。

 後日。菅江真澄は「里人の言えり」と書いているので実見していないとわかり、祠の扉を閉じた状態で描いていたことが理解できました。

『長野県町村誌』

 「何か手掛かりが」と長野県『長野県町村誌』〔洗馬村〕を開くと、該当する神社が一社あります。

【若宮社】雑社 社地東西四間(7.2m)、南北七間(12.6m)、面積五間一尺方(※正方形の面積に換算?)。祭日八月十四日、原由詳ならず。

 社地に注目すると、(記憶の目測ですが)「跡」碑が建つ社地の長辺・短辺の長さと合います。これで若宮社が現在の若宮社跡に重なりますが…。

祟る若宮さま

若宮様 「2012年6月」とあるストリートビューでは、まだ新しい標柱が写っています。なぜボカシが入っているのか理解できませんが『○○○若宮様』と読めます。下部は「この前を乗馬で通行してはいけない。神罰を受け、落馬、怪我をし、嫁入りだと不縁になる」でした。境内の祠が道を背にしている理由がこれでしょうか。

碑は「跡」と言うが

若宮八幡 菅江真澄は、天明3年(1783)に若宮を参拝しました。今から240年余り前となりますが、その時のスケッチを残しています。ここでは、内田ハチ編『菅江真澄民俗図絵 上』から〔雁田明神〕の一部を転載しました。

若宮社跡 そこに描かれた立木の大きさにその後の年月を加味すると、写真の大木が一致します。
 そうは言っても、下部に描かれた家の大きさから写実的に描いたとは言えませんが、私とすれば「これが若宮八幡だ」と断言したくなります。しかし、あくまで「跡」を言い張る碑の石の重みもあって無視することはできません。そこで、この祠が、菅江真澄が見聞した若宮「八幡社」としました。

 本稿の前編というかプロローグは、以下のリンクで御覧ください。

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