エンパーク(塩尻市市民交流センター)内にある図書館で、塩尻市の旧村史誌を幾つか手にしました。いつものコースで〔神社・民俗〕を開いていくと、『吉田区誌』に、これが目的という三峯社の写真を二枚見つけました。
自宅で、その場所「吉田一区」を探し、旧来と思える道をストリートビューで走ってみると、『吉田区誌』に載る「背後に火の見櫓が写っている三峯社」が現れました。
もう一枚の三峯社が見つからないまま北に進むと、区外となる高速道路を潜った先で、写真とは違う形状の三峯社を見つけました。何れも火の見櫓や道祖神があるので、かつての集落の中心地ということがわかりました。
今回は、現地踏査とストリートビューの画像に違いが出たので、旧・新(ビフォー・アフター)の形式で並べて見ました。
中央が、ストリートビューで見つけた杉葉のお仮屋です。昔ながらの辻に火の見櫓ですから、三峯社がある場所の一つの例と言えます。
比較的暖かな日でしたが、3時過ぎともなると、風の冷たさが身に染みます。日蔭に残る雪が目に入れば、なおさらです。
影を長く作る陽光の下で現地に向かうと、新しい石祠が、杉葉のお仮屋に代わって迎えてくれました。「うーん、残念至極 !!」と言うしかありません。
背面に平成28年11月があります。これだけ年月が経っていると、写真に残せなかったことの諦めがつきます。この現状は祭祀者の都合なので文句は言えませんが、基台を高くして三峯社の遺風を残してくれたことに感謝をしました(…個人の想像です)。
ストリートビューから切り取った、杉葉で覆い前面に御簾を垂らした「ありし日の三峯社」です。
2023年を表示していますが、実際には2012年6月でした。車のすれ違いが困難な裏道ですから、未だ未更新ということでしょう。
もう一つの三峯社を探すために、塩尻市吉田支所に併設された図書館に向かいました。「若い職員に三峯社を持ち出しても」と思いましたが、事情を話すと、隣の支所に話を通してくれました。窓口で『吉田区誌』の写真を示しながら説明すると、難なく三峯社がある場所を教えてくれました。
コンビニの横から奥に歩くと、この光景があります。
それを左に見て、なおも進みます。しかし、神社の類はありませんから、この祠が三峯社ということになりました。今度は木造ですが、続けての「残念至極」という結果になりました。支所の職員が「作るのが大変だ」と聞いていたように、早くにこの形になっていたのでしょう。しかし、今一つ三峯社という実感がありません。
ストリートビューで確認すると、2023年版を含め旧版が幾つかありました。
最も古い2012年6月がこの画像です。基台の左右にある塩ビのパイプに挿した枯枝を「もしや」と拡大すれば、杉の葉に見えます。それを「木の祠に造り替えたが、今もお仮屋を象徴する杉葉を飾っている」と考え、三峯社と断定しました。
調べると、『吉田区誌』は平成20年(2008)の発刊でした。その頃は「作るのが大変」と言いながらも、毎年作り替えていたのでしょう。
この辻には、道祖神がありました。右の建物は名無しなので、御堂が並んでいると書くしかありません。
ストリートビューでは、2012年から「鋼板の箱の中に祠を安置している」形態です。上に杉葉を載せているのも変わっていませんから、早くからこの景観を見せていたことになります。横に杉の木があるので、資材の調達には事欠かなかったのでしょう。
20012年のストリートビュー画像です。変わり映えしませんが、杉葉をどのように固定しているのかがわかるので載せてみました。
この三峯社の支柱は一本です。一区の三峯社(上手地区)とは直線距離で700mですから、講を成立した背景が異なっていたと考えました。
「明治四十三年測図昭和六年修正測図及修正縮図」とある、五万分の一地形図『盬尻』の一部です。
旧村名が大字(おおあざ)になった「吉田」に三峯社の場所を重ねると、北から「下・中村・上手」の小字(こあざ)になります。それぞれの集落にある三峯講がその中心地に祀ったことがわかりますが、御眷属拝借之牘を視認できていないので、今も講の機能が存続しているのかは不明となりました。