『諏訪藩主手元絵図』には、大熊(おぐま)村と茅野村に「七御社宮神」が見られます。下は、諏訪史談会編『復刻諏訪藩主手元絵図』から〔大熊村〕の一部を加工して転載したものです。これが、江戸時代の「七御社宮神」です。
大熊村にある「大天白」を調べる中で、諏訪史談会編『諏訪史蹟要項 諏訪市湖南篇』(以下『要項』)を手にしました。その中にある標題の一文をを読むと、
とあり、明治の神社合併で跡(址)になった四社の御社宮司社を、固有名詞で挙げています。また、当然のことですが「大熊にも御頭御社宮司社があったんだ」と知識を増やしました。
本宮から有賀千鹿頭神社にかけての道を何回か歩いていた私は、「ここに出る古道三本の何れかに相当していたんだ」と振り返れば、余所者である私ですがテンションが上がりました。それに、大祝やミシャグジが絡みますから、もう…。
これで、南方・北方各御社宮司神社と榧ノ木御社宮司社(大国主命神社)を除くと、残りの“四御社宮神”を探すには、この碑を見つければいいことになります。
諏訪大社本宮から、『要項』をザックに忍ばせて大熊へと向かいます。旧道は、元々は人馬の道なので車のすれ違いが困難です。徒歩が正解だったと、左右に目を配らせながら進みました。
初めに見つかったのが、御柱の木札に「小林稲荷神社」とあるので、『要項』にある「小林御社宮司社」です。
幸先がいいと喜んだのですが、やはり「稲荷」には疑問を持ってしまいます。道々で出会った地元の老若男女に確認すると、「ミシャグジ」にはまったく反応しません。あくまで「巻の祝神」と言い張り、「大熊では、ほとんどが稲荷神を祀っている」と怪訝そうに答えます。
この現状に、「南方御社宮司神社に合祀されて空いた祠に祝神を据えた→平成の世では、かつて祀られていたミシャグジが忘れられてしまった」と自信を持って考えていた私ですが、徐々に揺らぎ始めました。何より、青年団が建てたという肝心の碑がありません。同じ「小林」ですが、取りあえず保留としました。
「御頭御社宮司址」には「(城山…)」とあるので、私にはこれしか浮かばない大熊城址へ向かいました。しかし、中央道で分断された城址の双方を探しましたが、石祠はあっても碑が見つかりません。「城山の向こう」の可能性もあるのでさらに進むと、北方御社宮司社に着いてしまいました。
意気込みと入れ替わった虚しさを抱いて、大熊城址直下の坂を下ります。右側は中央自動車道のフェンスですから、つまずかない頻度で左方を注視します。すると、石柱らしきものが見えます。「あれだ!!」と近づくと、ありました「御頭御社宮司社」が。同じ場所でも、登りと下りでは目線が違って見つかるキノコ採りと同じでした。
碑の向きと場所から、かつて存在していた社殿(祠)は、下り斜面を背にしていたことになります。
その不思議さに前方の隠し畑のような平地を眺めると、狭くとも、そこに御頭小屋(屋敷)を建てるにはふさわしい場所のように見えてきます。しかし、ザックから取り出した『要項』は、「御頭御社宮司は、この屋敷跡の西方約二百米に位置している」と書いています。言い替えると「ここから東200mが御頭屋敷」となりますから、斜面の下方ということになります。碑の正面とは関係ないことになりました。
「この勢いで残りの三社も」と意気込んだのですが、権現沢周辺にあると目星を付けた御社宮司社は見つかりませんでした。
上図は、冒頭に載せた『諏訪藩主手元絵図』を反転させたものです。これで、“通常”の地図Googleマップと比べることができます。
鎌倉街道の知識を補充するために、久しぶりに『諏訪市史』を借りました。「上巻」を選んだのですが、巻違いで、それについての記述はありませんでした。
ところが、今までは一度も触れたこともなかった巻末のポケットが気になります。誘われるように一枚の図録を手にすると、『諏訪市史跡・文化財地図(古代・中世篇)』(以下『地図』)でした。
広げると、「おー、七御社宮神が」というその場所が全て記載してあります。どういうことかと凡例を確かめると、「…神社・ミシャクジ『祝詞段』の神社」とありました。「諏訪市も中々やるじゃないか」という評価は別として、関係する部分を転載しました。
これで「今までの苦労は何だったんだ」となりましたが、それはそれで楽しかったので…。
『地図』では上(北)から三番目の小林御社宮司は、全て道路公団の敷地になっています。それでも、伸びた草の中に碑が隠れている可能性を思って注視しますが、…見つかりません。今日は、出鼻からくじかれてしまいました。
自宅に戻ってからの話になりますが、『諏訪藩主手元絵図』(以下『絵図』)を確認すると、上写真では沢の手前、つまり撮影位置の後方に「七御社宮神」と書いてあります。
その場所は(南東約200mから移転した)南方御社宮司神社の境内ですが、その一画に「御社宮司社」碑があったのを思い出しました。碑の説明が「南方約八十80メートルの地(中央自動車道の下)に在ったものを移転した」ですから、『絵図』の「七御社宮神」が「小林御社宮司」と重なりました。
これで、諏訪史(市)お墨付きの『地図』ですが、その所在地が誤記であることがわかりました。
左は、標題の地図を部分拡大したものです。ここでは、他所の例から[
]がその所在地になっています。しかし、その範囲は、地図のスケールから約40m四方になります。前出の「小林御社宮司」の例もあるので、広範囲に探す必要性が出てきました。
『要項』では「新田」ですが、『地図』では「神田」です。権現沢の下流域が「御戸代」なので「神田」の方が正しいかもしれない、と歩いていると、権現沢の手前にある水神に「(建立者)神田組」と彫ってあるのを見ました。地元の人に「権現沢までが“しんでん”で、川向こうが湯田」と聞いていましたから、神田が正しいとなりました。
前回、推定地とした木工所を訪れた時は「わからない」という結果に終わりましたが、今日は石碑の写真を持参しています。
作業中なので、頃合いを選んで「この前はありがとうございました。懲りずにまた来ました」と挨拶しました。写真を提示すると、「あの後思い当たって」と案内してくれました。作業場をスルーして外に出ると、正(まさ)しく御社宮司社碑が目の前にありました。彼には庭石同然のものと思いますが、私は、思わず「オー」と声を出してしまいました。
作業場と碑がある一画の間は木工所内の通路といった感じですが、右側が中央自動車道の側道に繋がっているのを見て、古道の跡であることを確信しました。『要項』で言う「七社(御社宮司社)を連ねて、その下方を一本の道路が貰通している」が実感としてわかります。
何回も頭を下げて感謝の思いを伝え、意気揚々と引き揚げました。
権現沢側から木工所方面を眺めると、藪地の中に古道が浮かびあがってきました。「まだ残っているんだ」と感慨も一入(ひとしお)でしたが、まだ廻目(まわりめ)が残っています。
『地図』にある、やや太い線に注目しました。「復員1mから2mの道路」ですから、古道が今も使われている可能性があります。わかるように、赤で着色してみました。
は、足で確かめた御社宮司社(跡)の正確な場所です。
大天白を探した時は、旧道を、わけもわからず何回も往復しました。しかし、今日は『地図』があります。
権現沢からその辺りを窺うと、民家の脇に細い路地が見えます。地図通りとほくそ笑みましたが、旧道まで往復しても、『地図』の場所にはありません。
しかたなく、表側(旧道)に回って直接交渉を始めました。6軒に声を掛けましたが、三軒は不在で、残る家もいつも通りの「わからない」で終わりました。
まだポツポツですが、カメラには気になる雨が降ってきました。本降りにならないうちにと、山際から続く長く伸びた藪の中に入りました。私はジャングルの中で秘宝を探す気分ですが、長時間のウロウロは、「あの人、何をやっているんだ」との疑いの目で見られかねません。「今日はこれまで」と歩道に戻りました。
もうすぐ旧道という地点で山手を見ると、「…御柱?」 近づくと正に御柱の冠(先端)でした(御柱で神社や祠の場所がわかるという諏訪は、本当に面白い土地です)。しかし、確認するには不法侵入になるという場所です。許可を得るために玄関へ向かうと、敷地の石垣脇に道がありました。
草を踏みしめながら進むと、祠ならぬ石柱が見え、廻り目御社宮司社と確認できました。
神社跡の碑にも御柱を建ててしまうのが諏訪人のスゴいところですが、ここでは違和感がまったくありませんでした。
旧道側から眺めた、古道跡と思われる道です。旧道からは、この家の前までは舗装されていますが、その脇は草地だったので、何回前を通っても、権現沢に抜けられるとは、夢にも思っていませんでした。
これで、七御社宮司は全て制覇しました。「いやー、面白かった」と、湖南青年団大熊支部の皆さんに謝辞を捧げずにはいられません。
それにしても、大熊の地は、御社宮司社の他にも巻の祝神が至る所にあることに驚かされました。諏訪では一番神口密度が高い土地かもしれません。
地図上に並んだ七御社宮司を眺めると、同じ標高上にあることがわかります。国土地理院の地図で調べると、榧木782m・廻目770m・神田久祢779m・南方(796m)・小林(800m)・御頭800m・北方795mでした。参考までに、本宮三・四の御柱が780m、前宮805mを挙げてみました。
また、中央自動車道が、諏訪大社上社を避けてから同じラインを通過していることもわかります。鎌倉街道と高速道路が、その時代の実情に合わせて最適のラインを取っていることが何とも面白く感じました。