この辺りは標高がかなり高いため、高原野菜の畑も写真に写っている森の手前で終わっています。
手前の扁平な小丘に、「石神仏」と十把一絡げに書いてしまった石造物が横一列に並んでいます。この場所が広大な開拓地の中で消滅しなかったのはその存在でしょう。
ここ「諏訪の神社」は、背後に八ヶ岳の主峰赤岳が控えるという絶好のロケーション地です。さらに、右中央の青い標識のある交差点のすぐ上は、御柱祭の「山出し」で御柱が曳き出される始発点です。ところが、「八ヶ岳中央農業実践大学」へと続く電柱並木など「その他の柱」が邪魔をして、「御柱はどこ」という結果にさせています。
そのため、グーッと右に寄ってみました。さらに道を渡り、退いた位置で斜めから狙うと蓼科山が丁度良い位置に収まってくれました。八ヶ岳連峰の最北端で「諏訪富士」とも呼ばれる蓼科山ですが、この位置からは三角形の秀麗な山容には見えません。
その一画に踏み入ると、赤岳大権現と読み取れる神号碑や祠とは別に、御柱には縁もゆかりもない馬頭観音が並んでいます。開拓時代に苦労を分かち合う農耕馬の安全を願い、力尽きた彼らに成仏と感謝の念を捧げた観音様と思われますが、カメラを向ける私には、その時代の辛酸さは知る由もありません。
これらの神仏は、明治の神社合併時に周辺部から集めて一括して安置したものですが、これまた宗教宗派を超えた「諏訪の魂・御柱」で(何の抵抗もなく)囲った祭祀者は、「日本人の原点」とも言えそうです。
中央の黒い物体は、最近発見された村指定文化財「モノリス」ではなく、かつてこの場所に村指定天然記念物「銀桜」があったという記念碑でした。強風で折れて枯れたそうですが、「銀桜」とは…。
「桜・銀桜・ギンザクラ」などでネット検索をしてみましたが、アクセサリーなどのブランド名や競走馬の羅列で意欲を失いました。これが最後と打ち込んだ「原村 銀桜」が大ヒットして見つかったのが、地元紙信濃毎日新聞の「諏訪地方の桜物語」です。ここで「銀桜」はカスミザクラの別名ということが分かりました。
web版の記事を読み進めると、かつて同紙で読んだことを思い出しました。一片の記憶も残っていなかったことに、バットで小突かれたような思いをしました。
純白の桜「銀桜」の詳細は、以下のリンクで御覧ください。