浜中島弁財天の境内は、葉をすべて落としたイチョウとケヤキが長く影を延ばしていました。残照と言える時間帯も後わずかとあって、より寒々しさを感じました。
道向こうの「御社宮司神社」を取り込んだ構図にしたので紛らわしくなりましたが、白い鳥居は浜中島弁財天の“もの”です。写真に一部写っている火の見櫓と御社宮司神社に加え、近くには下浜区民センターがありますから「旧下浜村の中心地」という場所になります。因みに、撮影場所の背後は諏訪湖畔です。
覆屋の中を覗くと、何と、本殿に弁財天の絵がはめ込まれています。「本来納められる御神体の代わり」と好意的に見ましたが、やはり違和感はあります。
結果として、これがあったからこそ「ここは弁天様」とわかりましたが…。
鳥居は諏訪湖(岸)を正面にしていますが、社殿は、かつて鎮座していた弁天島ではなく「変な方向」に向いています。人家で遮られて見通しが利きませんが、諏訪湖の中心か対岸にある高島城のように思えました。
この写真の「お題」は、「覆屋の扉に空いた穴二つ」です。
正面寄りの丸穴は、かつて使われた「賽銭投入用」と想像できます。しかし、右隅の長さ30cm程の穴には首を傾げてしまいました。「何か手掛かりが」と目を凝らしますが、切り株のようなものが見えるだけです。
鍵穴状に整形してありますから、何かの用途があるのは間違いありません。「キツネ穴なら理解できるが、ここは弁天様だし」と、ポッカリ開いた口を疑問として持ち帰ることになりました。
諏訪では実見したことがありませんが、稲荷神社の祠に眷属が出入りする「キツネ穴」を設置した例があります。「弁天様の眷属はヘビ」ですから、これに倣うと、「扉の最下部(床面近く)に空けた穴」は「ヘビ専用の出入口」となります。さらに、その鍵穴状の形を「鎌首をもたげたままても通れる」と考えれば、なお納得できます。「ヘビ穴」は一般的ではありませんが、私の推理通りなら、覆屋を造った人に盛大な拍手を送りたいのですが…。
「弁天島に生えていた大ケヤキを売却した。残った根を八艘の舟に吊り下げて持ち帰ろうとしたが湖中に落ちてしまった。何とか引き上げて運び出すことができた。今でも、その根で作った餅臼や広蓋(ひろぶた)が残っている」と伝える文献がありました。
見た目では、「鍵穴」から覗ける木の一部が、残りの切り株と思えます。「ヘビ穴」より、かつての神木を「拝観する穴」とした方が合理的かもしれません。
下図は、諏訪史談会『復刻 諏訪藩主手元絵図』にある〔岡谷村 新屋敷 間下 上浜 下浜〕の一部です。わかりやすいように(天竜川が左へ流れ出るように)90°回転させました。この絵図は享保18年(1733)の作成ですから、この頃には島が二つあったことになります。因みに、三狐神と書かれているのが、現在の御社宮司神社です。
この絵図に名称などを書き入れて、弁天島の歴史を書いてみました。
戦国時代の武将日根野高吉は高島城を築造しました。その際には諏訪湖の水位を下げる必要がありました。唯一の流出河川が天竜川ですから、ネックとなる下浜村に堀()を開削して流出量を増やしました。
文献上では「慶長10年(1605)頃」だそうです。この工事によって島となった場所に弁天社(絵図では弁才天)があったので、「弁天島」と呼ばれました。
その後、洪水対策で弁天島を二分する水路()が開けられ、新たに浜中島が出現しました。天保年中には「浜中島」が取り払われ、残った弁天島も慶応4年(明治元年)に取り払われて消滅しました。これが、名勝「弁天島」の誕生と消滅の歴史です。
岡谷市『復刻平野村誌』に、〔御社宮司神社の境内社〕として「厳島社」が載っています。初めは読み飛ばしましたが、内容から現在の浜中島弁財天社とわかりました。
同書から、笠原岩太郎氏蔵「岡谷村古地図の一部分」を転載しました。 初めは「島が二つ」程度の認識だったのですが、ルーペで拡大すると「鳥居が三つ」あることに気が付きました。これで、古図からも弁天島には二つの弁財天社があったことがわかります。
その後の明治元年に弁天島を取り払うことになり、小口氏の祠は「旧東山田村」に移され、一方の千野氏寄進の祠が、ここで取り上げている「浜中島弁財天社」として現在地に移転されたと理解できました。
寛政から文政年間(1800年頃)に作成された『甲州道中分間延絵図』にも、二つの弁天社が描かれています。ここでは、東京美術が出版した復刻版から〔上諏訪宿〕の一部を転載しました。「字(あざ)弁天嶌」と読め、各鳥居の左側に「弁天」と書いてあります。
弁財天社の脇に石祠があります。この配置に疑問を
持っていましたが、前出〔御社宮司神社の境内社〕の記述から、高島藩家老千野氏が寄進した石祠と理解できました。言わば浜中島弁財天の“元宮”で、現在の社殿が建造された時に引退したのでしょう。
浜中島弁財天は、諏訪湖の中心に向く方角に建てられています。その方位角を平均値で113度とし、磁北の7度で補正すると106度となります。
地図にそのラインを引くと高島城三之丸を通過しますから、弁天島の領主だった千野氏の居住地が正面になるように建てた意図を感じます。
その先は『御枕屏風』にも描かれている「べんてん」社に達しますから、「二の丸騒動」を経験した「千野氏の心願」が弁天社に向けたものであったことが窺えます。
諏訪湖の風景の中に弁天島が描かれた絵が何枚かあります。
井出道貞著述『信濃奇勝録』にある〔諏訪湖〕から「弁天嶌(島)」だけをカットしました。「弁天島は長さ60間(110m)・幅10間」とあるので、かなりデフォルメした形で描いてあることがわかります。
浜中島の撤去は天保年代とされていますが、『信濃奇勝録』の編纂が天保5年(1834)なので、それ以前に浜中島が消滅したことになります。
通常はお目にかかれない吉田鵞湖編『諏訪八勝詩』にある〔尾尻〕の絵を探してきました。上部が天竜川の流出部ですから、岡谷市側からの眺めになります。
天保9年(1838)の作なので弁天島になりますが、石祠ではなく木造の社殿として描いています。時代から見ると、小口氏の祝神という可能性があります。また、かなりの流れがあるような印象を受けますが、「波線」は単に水の流れを表現しただけかもしれません。
新聞に「弁天様の石像が納められた」と載っていました。
10月になってから駆けつけると、白い弁天様が本殿の前に鎮座していました。本殿内に安置された幣帛が御神体ですが、こうなると、どちらを拝んでいいのか悩んでしまいます。