岡谷市湖畔に鎮座する、下浜御社宮司社を参拝しました。
その際に、神庫(※ 現在は取り壊され更地になっている)の裏に隠れるようにしている大きな石祠に気が付きました。高い基壇の上にあり、注連掛鳥居と玉垣が造り付けられていますから、境内社の中でも別格です。屋根の大棟は幅102cm・基台を含めた全高は110cmと測定しました。
その右前には、「濱むら御社宮司社元宮」とある黒御影石の社号標があります。
「濱むら」は、ここから道三本隔てた隣が「下浜区民センター」・JRの線路を越した先にあるのが「上浜公民館」と知っていたので、上浜・下浜と分村する以前の呼称と考えました。
次に注目したのは、「元宮」です。御社宮司(神)社の「元の宮」という意味ですから、左にある御社宮司神社の大きな本殿が造営されるまでは、この石祠が本殿だったということになります。この大きさですから、その資格は十本にあります。
改めて祠内を覗くと、古い幣帛があり、その軸に何か書いてあります。ズーム大にしたカメラのファインダーで確認すると、「浦太郎神社氏子中」と読めました。
始めは「偶然に見かけた大きな石の祠」でした。しかし、その社号標を媒介とした何かが私をしっかり囚えたようで、今や、このまま立ち去ることができません。これを「祭神からお呼びがかかった」と言うのでしょう。またの再訪を誓いました。
季刊誌『諏訪 第六号』に、小口伊乙さんが寄稿した『御社宮司の研究』があります。抜粋して転載しました。
わかりにくい文ですが、「小口一族が祀っていた御社宮司社が村の鎮守社に昇格した。それまで安置されていた石祠を境内の東北に移転させて、新しい社殿を建てた」と読めます。
これを基にすれば、浦太郎社小まき中が御社宮司社の旧本殿(元宮)を譲り受けて祀ったとなります。『小社神号記』には、濱村に「浦ノ太郎 小口幸助・小口余右エ門(祭祀者)」を載せています。
社号標の裏に「濱むら開創三百五十年祭記念」と彫られています。「平成六年…」とあるので、この年に「浜村→上浜村・下浜村→平野村→岡谷市」という変遷で開村350年を迎えたことになります。また、祠にある「寛文七年(1667年・327年前)」から、開村から23年を経てこの石祠の造立が行われたことがわかります。
その記念事業が「浦太郎社小まき中」の手で行われたことに注目しました。諏訪では、同族・一統を意味する「まき(巻・牧)」が氏神を祝神(いわいじん)と呼んで祀っている例が多くあります。ここでは「“小”まき」ですから、同じ氏神・浦太郎を祀っている巻の一つということでしょうか。
その「浦太郎社」が大いに気になります。長野県には浦島太郎伝説で知られる「寝覚ノ床」がありますから、ここ諏訪湖畔に◯◯太郎伝説があっても不思議ではありません。
利根川の別称が「板東太郎」です。関東で長男格の川ということですが、その彼(川)に弟が二人いることを知っているでしょうか。それは自分で調べてもらうことにして、「諏訪湖最大の浜・浦」と「太郎」が結び付くのではないかとネットで検索してみました。
「浦太郎」では「東家(あずまや)浦太郎」しかヒットしません。「子供の頃、彼の“ウナリ”をラジオでよく聞いた」と言うと私の年が知れますが、その子孫や“崇敬者”が岡谷市にいたという話はありません。一方、伊那には犬の「早太郎伝説」がありますから、動物の可能性もあります。しかし、図書館で伝説や民話の本をめくってみましたが、「諏訪湖の主が大ウナギ」というような話もなく収穫は0でした。
「浜村創立」に関わる「由緒ある浦太郎」と思われますが、今は大いなる歴史の中に完全に埋没してしまったようです。それは、岡谷市でもこの辺りだけの極めて限定された「浦太郎」であったためと想像してみました。
平成22年11月になって大きな進展がありました。「シリーズ物」になってしまったので、続きは以下のリンクでご覧下さい。