『諏訪史 上巻』の付録『諏訪市史跡・文化財地図(古代・中世篇)』(以下『地図』)に、上・下の御社宮司が載っています。
左図はそれに関係する部分を切り取ったものですが、神社名が枠外となったので代わりのラベルを貼り、原図の八劔神社の凡例に赤色を重ねて加工しました。
時代は〈古代・中世〉ですから、『祝詞段』所載の「御社宮神(ミシャクジ)」ということになります。
その『祝詞段』をひもとくと、確かに「下桑原鎮守・大矢小玉石・湯ノウ権現・上下ノ御社宮神・武津子ノ神…」が書かれています。ただし、中世という古い時代に加え、明治期には神社合併がありましたから、現在も存続しているとは限りません。
次は『諏訪史 上巻』の本文で、関係するキーワードを探してみました。〔第七章 諏訪神社の古態〕から、その一部です。
『諏訪史』の編纂者は、それぞれの鎮座地に「諏訪二丁目(木ノ下)と小和田」を挙げています。それが『地図』に落とした上・下御社宮司ということになりますが、その根拠というか詳細は書いていません。
まず、八剱神社に近い下御社宮司の「」の下を凝視しました。「甲立寺の山門から」と記憶にある道をたどると、…心当たりがあります。去年の11月に、更地になって見通しが利いた場所に小祠があるのを見ていたからです。祝神か屋敷神という認識で終わっていましたが、それが下御社宮司に繋がる可能性が出てきました。
一方の上御社宮司は、「アップルランド(現セブンイレブン)」の敷地内とわかります。
出版年である平成8年当時とは状況が変わっているので、『地理院地図Vector』を用意しました。『地図』に合わせて回転させ、「推定地・名称」」を重ねたものです。なお、「貞松院の御社宮司跡」は後述となります。
ここで、勘違いが生じる可能性があるので、少し説明を入れます。
今取り上げている御社宮司は、中世での話です。幹線道路といえば「鎌倉街道」で、地図にある「八劔神社」もまだ諏訪湖中の高島にあった時代です。この辺りも、直ぐ近くまで諏訪湖の低湿地帯が広がっていたと想像できますから、ここに御社宮司があったと言われても、今では想像もできない景観ということになります。
暑さがしのぎやすい曇り日を選んで、ミシャグジ探しに出掛けました。スマホを持参しましたが、紙の地図の方が手っ取り早いので、一度も出番はありませんでした。
まずは、下御社宮司です。すでに家が建っていると覚悟していましたが、「ミシャグジが見える風景」は健在でした。「無断立ち入り禁止」ですが、工事関係者がいないのを確認してから忍び足でその前に立ちました。
ところが、祠の前には「伏見稲荷大社」の御札が置かれています。落胆しながらも「何かミシャグジの痕跡が」と執拗に観察すると、台座に「濱」の一文字がありました。しかし、結局は「濱さんちのお稲荷さん」とわかっただけでした。
改めて持参の地図を照合すると、同じブロック内ですが、やや離れています。八劔神社の凡例からその中心が該当地としてその前に立つと、民家が並ぶ中で一軒分だけ更地になっている場所でした。
上御社宮司は、セブンイレブンの駐車場でした。その前身となるショッピングセンター(アップルランド)の建設ですでに移転していた可能性が大きいので、一応見渡してはみましたが早々に諦めました。
こんな現地踏査の結果ですから、戦国時代の混乱で廃絶したか、高島城とその城下町の町割りの際に移転したか、明治期の神社合併で八劍神社か手長神社に移転したと考えるしかありません。その一方で、この『地図』は信用できない(間違いではないか)との思いも募ってきます。“旧跡地”の場合は、正確な場所を示していない例があるからです。
こうなると、現在は手長神社の境内社としてある二つの御頭御社宮司社をここに担いでくるしかありません。
今までは、「御頭」が付いていたので江戸時代以降の御社宮司社として距離を置いていました。しかし、上・下の御社宮司が現地に存在していない今、それを「御頭御社宮司社」二社が引き継いだと考えたほうが自然です。
再び『地図』に戻ります。ここでは二つの御社宮司が超接近しているので、どうしても「?」が生じます。しかし、『祝詞段』の別の記述では「上原の郷にチカト・若宮・久須井十三所・上下御社宮神・矢ヶ崎鎮守…」とあり、そちらも近接した鎮座地ですから、この疑問は無くてもいいことになりました。
次は、何に対しての「上・下」かが不明です。上原の例から、諏訪神社上社に近い方を「上」としてよさそうですが、これだけ近いと微妙な上・下となります。いずれにしても、両社の間には、二つの御社宮司を配置せざるを得なかった何かのラインがあったことは間違いありません。
手長神社の境内社として移された御頭御社宮司社は、どこにあったのかは正確にはわからないようです。
それを窺わせるのが『甲州道中分間延絵図』と〔享和以前の貞松院平面図〕です。
前者では、甲州街道と並行する裏道に接して貞松院があり、その境内に鳥居と「社宮司」が書いてあります。
後者では「貞松院境内の隅」という描き方ですから、寺院の鎮守社とも見えます。
双方の絵図は江戸時代で、貞松院も江戸初期の創建なので、元々この場所にあった御社宮司社を取り込んだと想像できます。こうなると、位置的に近い上御社宮司を絵図に載る御社宮司と比定できます。しかし、「小和田の御社宮司」は手長神社に移転したとしても、『諏訪史』が言う下御社宮司の原位置は不明のままです。