(今となっては古い話となりましたが)ネットで、旧飯島村の鎮守社「神明宮」の写真を見ました。その中に「境内社」と説明がある祠があり、それがカヤで覆われていることから三峯社と直感しました。
一年後となった平成24年6月に初めて神明宮を参拝すると、件(くだん)の祠は竹枠だけで、カヤは一本もありません。通常なら年に一回葺き替えをしますから、その風習はすでに途絶えた可能性を思いました。
それから三ヶ月経った10月に、神明宮を再訪しました。
もう私のカメラに収めることはできないと覚悟していましたが、…本来の姿で現れました。カヤの白化具合から、7月以降に葺かれたことがわかります。さっそく『神明宮の三峯社』として、〔諏訪の神社参拝記〕に加えました。
平成28年になって、「神明宮の祠は、三峰社ではないのでは」というメールを戴きました。以下は、その抜粋です。
私も『諏訪 四賀村誌』の〔神明宮〕を読んでおり、別項の〔津島講〕では、写真付きで
とあるのは承知していました。
それでも、「茅野市坂室の三峯社では七月十五日に葺き替えと例祭を行っている」事例もあり、「三峯社が津島社にすり替わった」として、あくまで「三峯社のお仮屋」に固執しました。
今年になって、富士見町の方からメールがありました。
三峯社のお仮屋には幾つかのパターンがあります。メールにあるお仮屋は「一本足・杉葉」で、松本市ではよく見られます。それらにうり二つと言える形状ですから、類例を挙げて「三峯社が津島社にすり替わったのではないか」と返事をしました。
ところが、メールの添付写真〔愛知県新城市津島社のお仮屋〕を見ると、三峯社の別パターン「四本足・杉葉」に酷似しています。
津島神社の本社は愛知県津島市ですから、アウェイの三峯社が前面に出ることはまず無いでしょう。そうなると、同じ形状であっても、私が言う「三峯社が津島社に上書きされた」は通用しません。
そこで「外観は同じでも、三峯社とは限らない」ことを受け入れ、『諏訪 四賀村誌』と寄せられた「聞き込み」情報から、前出二社を「津島社」と認知することにしました。正に「井の中の蛙」という結果になりました。その流れで『神明宮の三峯社』は削除しましたが、中村のお仮屋には心残りがあるので“そのまま”としました。
以前ネットからダウンロードしたままのpdf文書
『祭祀にともなう施設の研究』(科学研究費補助金研究成果報告書)
『津島信仰のお仮屋』(関西大学博物館紀要)
『奈良盆地と周辺部の御祭りのお仮屋』(関西大学博物館紀要)
を開いてみました。何れも研究書なので、写真は豊富ですが、長文とあって完読するには覚悟が必要です。
『津島信仰のお仮屋』では各地のお仮屋を挙げています。静岡県袋井市の寄木神社境内にある津島社は杉葉で覆っていますが、全体としてカヤを使う鹿教湯(かけゆ)温泉の三峯社に似ています。
また、各地にあるお仮屋の多くは支柱に竹が使われていますが、覆材は檜・杉を始め楢や椚の落葉樹もあります。お仮屋も例祭日当日に撤去されるものから、次回まで常設というところもありますから、正に百花繚乱(乱立)状態です。分類などは、とてもできないでしょう。
唯一、三峯社固有のものと考えた「前面のスダレ(御簾)」ですが、黒田一充著『奈良盆地と周辺部の御祭りのお仮屋』に載る天理市長岳寺境内に作られた「元々は八坂神社のお仮屋」というものにはスダレがあり、益々その形状では神社(祭神)の区別はできないという結果になりました。
「それぞれが影響し合って」と言うより、それぞれが創意工夫する中で(考えることは皆同じですから)このようなバラエティに富んだお仮屋が作られたと考えるしかありません。
天満宮のお仮屋 横河川沿いの神社を調べる中で表示した「秋葉神社」をクリックすると、この投稿写真がありました。
「これはお仮屋だ」と拡大すれば、天満宮です。実は、これを見て「天満宮にお仮屋があるのなら、津島社にあってもおかしくない」という認識を持ちました。
令和になった年にその秋葉神社の境内に立ちましたが、お仮屋どころか、写真の景観はどこにもありません。結局は県道沿いの一画にあるのを見つけましたが、お仮屋は撤去されたのか神号碑は裸のままでした。
道祖神のお仮屋 ストリートビューで見かけた、古部澤社境内にあるお仮屋です。
現地で確認すると、お仮屋は無く、その基壇上には双体道祖神が二基ありました。
道祖神のお祭りは小正月なので、「撮影5月」に合いません。小宮(御柱祭)の年とも違うので、例祭日を銘「安永甲午年五月吉日」に結びつけ、その時にお仮屋を設置して撤去したと考えました。
私が知る「お仮屋がある道祖神」の初例となりました。例祭日以外は目に触れないので、諏訪にはまだあるのかもしれません。