8年前のことですが、龍雲寺の裏山にある風穴を“探索”する道中で、「御頭御社宮司社」の祠を見ました。その後、習焼神社に設置された絵地図を見て、中央自動車道の上にも「御社宮司社」があることを知りました。
Googleマップを開くと、その二社が表示します。「旧村社」なら話がわかりますが、小祠が一つという神社がなぜ載っているのか不思議です。しかし、早々に「民間の地図には、載せる基準などないのだ」とし、それで終わらせました。
平成28年も半分終わった七月に、「風穴に行きたいので場所を教えて」というメールを受け取りました。しかし、道無きところを登って偶然に見つけた場所なので、返事が出せません。何とか応えようとGoogleマップを開いて検討した結果、「この辺り」と見当を付けました。かなり近くまで林道が延びているので、今回はこのルートで再訪してみようということになりました。もちろん、その道中に前述の「御社宮司社」がありますから、確認(参拝)する意味合いもあります。
中央道を見下ろす高架橋を渡って左折すると、直ぐに御社宮司社の案内板がありました。
下方にある御頭御社宮司社と同じ仕様ですがら、設置者が同じとなります。ところが、その背後の藪を透かしても祠がありません。その藪と同化した山道を左右に目を配りながら登りますが、そのまま林道に出てしまいました。仕方なく、御社宮司社は帰りに確認ということで風穴を目指しました。
風穴については標識や道があるわけではないので、林道のかなり奥まで歩いてしまいました。結果として、林道から分かれて5分もかからなかった場所にあるのを見つけることができました。
帰りは、林道経由で再び案内板の前に立ちました。ところが、伸びた藪で見通せないこともあって、ミシャグジ様はその姿を現してくれません。「風穴のついでに」という動機が、気に入らなかったのでしょうか。
「今日は(も)これまでか」と諦めました。それでも「もう一回だけ」と登り直すと、右側の山手に、わずかな藪の切れ目に何かが見えました。
場所を変えて注視すると、石の祠でした。「案内板は、役目をまったく果たしていない」と息巻いても、その相手はここには居ません。それより、そこへどうやって登るかが問題です。踏み跡もないので、藪をかき分けながら強引に這い上がりました。“森林限界”を超えると、写真の祠が目の前にありました。
比較的新しい祠の背後には、石板があります。それが土留の役目を果たしているのを見て、改めてこの場所が結構な傾斜地であることを実感しました。
それにしても、この景観には違和感があります。真志野峠を越えて後山へ続く山道を見下ろしていますから、山の神ではないかと思えてきます。
歩きやすい場所を選んで下ると自然と案内板のある方向になり、草に埋もれていますが、杭と丸太で作った段があることに気が付きました。下からはまったく見えなかったのも頷けました。
今回撮った写真は草に覆われていたので、石垣などがよくわかる平成20年のものと差し替えました。左方が「御屋敷跡」と伝わる場所ですが、ただの畑地なのでカットしました。
後方に大きな民家があるので、それを避けるとこのアングルになりました。
これで両御社宮司社の写真がそろったので、何か紹介するものがないかと『諏訪史蹟要項』を開いてみました。ところが、御頭御社宮司社については、何も載っていません。仕方なく写真だけの紹介で終わらせようとしましたが、〔問わず語り〕に目が留まりました。
諏訪史談会編『諏訪史蹟要項 十七 諏訪市湖南篇』〔南真志野〕から、[5.問わず語り]の一部を転載しました。
抜粋なので(諏訪以外の人には)通じないかもしれません。「殿様が代替わりすると、村々を巡検します。その時に贈り物をする場所が献上場で、村の代表が“勝手に”村内のガイドをするのが問わず語り」と補注を入れました。
以下は、同項にある、弘化二年九月「殿様御国廻り御廻状被参候」とある文書から「口上」の一部です。候文(そうろうぶん)なので、読みやすいように書き替えました。
改めて取り上げるような内容ではありませんでした。それでも、耳を傾けているのかわからない殿様に、一所懸命説明している姿が目に浮かんだので紹介しました。
私も、誰も訊かない(問わない)のに勝手に書いていますから、村の名主と同じではないかと思うことがあります。それでも、書くことが大好きなので、(今は死語となった)「キーボードハッピー」の毎日に浸っています。近況報告はこれまでとし、以下に続きます。
『絵図』に載る「御社」と「御當御社」が「御社宮神」と「御頭御社宮神」であることはわかっていました。その一方で、「御屋敷 古より申し…」の左にある石が、読めそうでいて確定できていませんでした。
さっそく「御庭石」を当てはめてみましたが、「庭」をどう崩しても重なりません。「御坪石」だと思うのですが…。
気になる「御屋敷」ですが、同書の〔龍雲寺〕では、「当寺の南に御屋敷という所があるが、或いは満隣(諏訪満隣)の邸跡であろうか」とだけ書いてありました。
ここで、御社宮司社がある山が「城山」であることを思い出しました。『諏訪市史』で調べると、〔南真志野城〕にわずかですが記述がありました。
調べる手間がかかった割に『要項』と変わり映えがしない内容ですが、これで私の気持ちは収まりました。江戸時代であっても、中世のことなどは、すでに「古(いにしえ)のこと」としてわからなくなっていたのでしょう。