この写真には、(通常はカットする)道路標識と歩道橋が写っています。それらは国道のバイパスに付随したものですが、ファインダーを覘いて、初めて達屋酢蔵神社の裏がこのような景観になっているのを知りました。
それは「…下暗し」とか「…山を見ず」に通じますが、その切っ掛けとなったのが、同じことが言える、境内では最奥の場所に二棟並んでいる石祠です。写真に残してから改めて注視すると、基壇上にあり灯籠の台座も残っていることから、同じ境内社でも別格に違いないと確信しました。
裏側から撮ったものですが、達屋酢蔵神社「三之御柱」と比べればまるで爪楊枝(つまようじ)ですが、その対比が面白い構図となって写っていました。
二社とも側面と背後には銘が彫られていませんが、左の祠に注目しました。屋根前面のカーブが深いので、私の“石祠編年”に照らし合わせればかなり古い時代となるからです。
古物と見た祠の正面に立つと、文字列が幾つかあり、朱が残っています。
その一番目立つ位置に、何と「」があります。諏訪では、島津家というより、神長官守矢家の紋を連想しますから、目が・になりました。
その右側は「寛文八年戌申」で、左は「十月十二日 横内村」と読めます。この場では寛文に西暦を当てはめることはできませんが、それよりが問題です。この祠を造立したのは「横内村」ですから、達屋酢蔵神社では用いない神紋があるのは不自然です。不思議に思いながら、この場を離れました。
寛文八年は1668年でしたが、古いことはわかっても身近な年号ではありません。調べると、私にはピンとくる「寛文14年 徳川家光の異母弟で会津藩初代藩主保科正之が死去」がありました。
後日、手掛かりを求めて達屋酢蔵神社に向かうと、隣の横内公民館には「文化祭」の飾り看板が掛かっていました。居合わせた男性に「右側の祠」と限定して伺うと、「あれはミシャグジ」との即答です。突然登場したミシャグジですが、他には情報が得られず、「横内区としてはそうなのか」という程度で引き揚げました。
諏訪では手っ取り早い史料として、諏訪史談会編『復刻諏訪史蹟要項六 ちの町篇』にある〔達屋酢蔵神社〕に目を通しますが、これといった記述はありません。ところが、一見関係がない「御柱」の項を読むと、何かが光りました。「御柱の文書は多数あるが、その中の一部を参考に記してみる」とある、寛政6年の文書です。
ここに書かれた「御社宮寺(司)・山之神」が、御柱の長さからも今取り上げている「別格の石祠二棟」に相当することがわかります。また、文政元年(1818)の『御柱数書上』でも同じ内容ですから、それが現在まで継承されているのは間違いありません。そのため、一般の氏子でも「あれはミシャグジ」という知識を持つことができたのでしょう。
しかし、身舎の前面に「紋や製造年月日」が刻まれている例がないので、何か胡散臭いものを感じます。文字も線彫りですから、後世(最近)になって彫り加えたように見えてきます。その流れでは、文字の朱も「その“作者”が目立つように入れた」意図も…。結局は、「ミシャグジの祠」に関しては保留としました。
『諏訪藩主手元絵図』に、明智光秀に通ずる「明地家老屋敷」の一つが大年神社と旧国道(甲州街道)の間にあります。その前を通るのが「うとう坂」を経て横内へ向かう道とわかり、何かないかと、ちの町史刊行会『ちの町史』を開きました。
明智光秀は空振りでしたが、思いがけないものが〔村人の生活と文化〕にありました。
〔大正期の永明村〕には
とあり、『諏訪藩主手元絵図』にある「山神」が達屋酢蔵神社にある「山の神」で、同じ「寛文八年」が彫られたの紋がある祠と確定しました。
ここで、聞き込んだ「あれはミシャグジ」が否定されたことで、左の石祠が「御社宮司社」ということになりました。
この御社宮司社は『諏訪藩主手元絵図』に載る「社宮神」で、かつての小川祝神の祠であったことがわかっています。
境や権利を主張するために、石祠を設置する例があります。山之神の旧鎮座地に山があるわけではないので、その役割は「横内村と(当時は)矢ア村の境界表示」と考えました。しかし、断層崖という誰にも明かに見える境があるので、相変わらずは不明となりました。