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御柱が立つ「辰野の三輪神社」 上伊那郡辰野町

 三輪神社の資料を探したのですが、諏訪からは「有賀峠の向こう」とあって、こちらの図書館には『辰野町誌』しかありませんでした。

三輪神社 祭神、大己貴命・建御名方命・少彦名命
 上辰野の甘露井にあったが、天正年間に現在地へ移されたと伝えられている。当社は神社名からしても奈良県大三輪町の三輪神社(大神神社)に代表される三輪信仰に刺激されて祀られたものと思われる。本殿脇に「諏訪魂石」がある。三輪信仰が中心の神社であるが建御名方命を祀り、辰野郷の御柱祭の本宮となっている。

三輪神社

三輪神社参拝 19.6.11

 辰野町内にある三輪神社・諏訪神社・法性神社を参拝しました。いずれも「御柱祭」が盛大に行われる神社です。ところが、三社連続で巡ったので、時間が経つにつれて“三位一体”となってしまい、どの神社がどうだったのかこんがらがってしまいました。

三輪神社御柱
倒された御柱

三輪神社再拝 20.11.30

三輪神社 たまたま近くに用事があったので、三輪神社限定で寄ってみました。前回とは季節が五ヶ月ずれていますから、参道にはすでに落ち葉が積もっています。月数では十七ヶ月も経っていますから、境内の隅に横たわってい御柱はすでに撤去されていました。もう、この神社に御柱が建っていたとはとても思えません。

三輪神社「祝詞殿」
拝殿space祝詞殿

 拝殿に「三輪神社・東郷平八郎謹書」の社額が掛かっているのを見てから、本殿に向かいました。
 ところが、拝殿に続き、諏訪では(知る限り)皆無という「祝詞殿」があります。そのため、本殿を格納した覆屋を含めると大きな社殿が三棟続いていることを知りました。

三輪神社社額 本殿の覆屋に社額が三枚懸かっています。「諏訪大明神」と「三輪大明神」は『辰野町誌』と案内板に一致しますが、「五條天神」がわかりません。確か、天神様は祭っていないはずです。読まなかった(知らずにいた)方がスッキリ紹介できたのにと“後悔”しました。

三輪神社本殿 その下に横長の「窓」が開けられていますが、下部が扉とあって本殿は一部しか見えません。
 本殿については辰野町教育委員会の「案内板」がありましたから、以下にそのままを載せました。


 元禄三年(1690)の検地帳に「社地弐反九畝拾歩 大明神 宮建有之 神主丹波」とある。社歴は詳らかではないが、大己貴命・建御名方命・少彦名命を祭神とする。
 本殿階段の柱の銅製擬宝珠に明和五年(1768)の銘があるが、類焼後の再建で、棟札によれば文政十一年(1828)に諏訪郡高木村の小口直四郎代昌によって建てられたものである。直四郎は立川和四朗二代富昌の弟子である。この社殿は一間社隅木入春日造、こけら葺の総欅造りで、各部に題材も豊かに彫刻が施されていてにぎやかく、江戸時代末に盛行した建築彫刻の特色がよくわかり、また、直四郎が得意とした各種仙人の彫刻もいくつか見られ彼の代表作とされている。なお、彼はこれより先の文政八年に、北大出の明光寺の山門を建立している。

三輪神社歴代神主の奥津城

墓所 本殿の裏に、境内社が横一列に並んでいます。何気なくその背後に目をやると、イチョウの根方に、神号碑と石祠が向かい合った方形の区画があります。銘に「社掌・矢嶋・丹波」の字が読みとれ、弘化四年(1847)の碑には「藤原」も見えます。「これは…」となりました。

 少し時間を戻らせた本殿の案内板に、「神主・丹波」がありました。「社掌」は今で言う宮司と思われますから、この場所は歴代の神主「丹波」の奥津城と直感しました。この狭さでは土葬は無理ですから、両墓制の「参り墓」のようなものでしょうか。神職ですから、「神座の末席に加わった」と考えたほうが自然かもしれません。
 写真手前の新しい墓碑銘には「丹波」はありません。今では「宮司」が一般的ですから、明治の変革期に「社掌」と「丹波」が消え「矢嶋」姓だけが残ったのでしょう。
 帰りに拝殿の大棟を確認すると、左から「三つ巴・桐・諏訪梶」が望めます。正面の破風は「三つ巴」でした。

五條天神

 ネットの検索では「五天神」のほうがポピュラーらしく、その神社の祭神が「大己貴命・少彦名命」とありました。時代から、京都の五条神社を勧請したことがわかりました。