写真では雪渓が残っているのが阿弥陀岳で、その前山が今日目標とする御小屋山(おこやさん)です。
「学林」を9時半に出発。ネットからプリントアウトした地図を参考に、「多分これだろう」という林道を進みます。
「御小屋明神社は、御小屋山登山道の脇」という情報しか持っていませんから、林間の道になると、「そろそろ」という、これも当てにならない希望的な観測を基に左右に視線を配るようになります。
地図に記載がないので、見つけるのは困難と覚悟していました。ところが、労せずに見つかりました。御柱に囲まれた大石の上に。
しかし、その石祠は余りにも新しく小さく、「諏訪上社」と彫られていますが、元号の「天正」がありません。また、記憶にある写真とは大きくかけ離れているので、「これは違う」となりました。
「諏訪大社」とある小屋が見え、ここから大社の社有林であることがわかりました。正面の凹地となった奥に重機の轍が延びています。間伐したのでしょうか、明るく開けており中々いい感じです。右に御小屋山への道標が見えます。目が届く範囲に祠がないのを確かめてから、取りあえずというか様子見でその尾根に取り付きました。
御小屋山登山が目的でないので、何回も「登るべきか引き返すべきか」と自問自答してしまいます。励ましているのか嘲笑っているのか、頭上を幾度も往復する山小屋の荷揚げヘリが、徐々に見下ろすまでになりました。時計を見て、たまたま直近だった11時まで、と切りをつけることにしました。
すでにタイムリミットの11時ですが、道が平坦になったので、「その間だけ」と言い聞かせて延長戦に入りました。
登山道では幹線道路の交差点となる辻に道標があり、その少し上に三角点があります。標石にタッチしてから、証拠写真ではありませんが「美濃戸口」を背景に測量基準石を撮りました。5分の超過でした。
ここまで重力に逆らって上げたコンビニのお握りと伊右衛門「濃い味」です。このまま降ろすのもシャクなので、阿弥陀岳を望める日溜まりを探しました。しかし、腰を降ろすことができたのは、風の当たらない“オープンポケット”とも言えそうな、西岳を望む小さな広場でした。
背負ったものが腹の中に移動しただけですから、総重量は変わりません。登山者に言わせれば「そんなの重さのうちに入らないよ」と笑われそうですが、格段に軽くなったザックを感じながら下山しました。
右側が明るく開けると見覚えのある凹地です。道はありませんが、この窪地に沿って下りることにしました。スミレの群落を避けながらトラバースすると、湿地状の水たまりがあります。「コンコン」というと泉ですが、赤土の斜面から滲(にじ)み出る程度ですから流れがあるようには見えません。
花が咲いていないので“知らず草”としましたが、葉の形から想像できるのはクリンソウでしょうか。最低部を選ぶかのように蛇行する細長い水辺に沿って、大きな葉を広げていました。
赤い花弁が花芽の中心からのぞいているのを見て、「開花は来週当たりだろうか」と注視した足元からヒョイと前を見ると、…石の祠が!!。
写真で見ていた「大切株」が脇にありますから、まさしく御小屋明神社です。斜め後ろからの初対面となりましたが、「御小屋明神を紹介するなら、まず御小屋山の山頂を極めてから来い」と言われたような気がしました。また、そう段取りしてくれたような不思議な出会いでした。正面に立ち、まずは感謝の拝礼をしました。
何はともあれ「天正」です。身舎(もや)の左側面に「天正十二申申六月」とあり、「確かに」と感動したのですが、その彫りの鮮やかさに疑問を持ちました。風化が全く見られないからです。それはそれとして、改めて祠を観察しました。
右側の向拝柱は後世に補完されたと断定できます。しかし、三部構成となる、屋根・身舎・台座のコケの乗り具合を含む色の差に、全て当時のものなのか、とこれにも疑問が…。
何しろ「天正」です。420年の間には破損等で交換された可能性もあります。複数の「違い」に、これは“各時代”が混淆した“複合祠”ではないかと思いました。
これだけの大祠です。持参のコンパスで方位を調べ、一人なのでメジャー端が固定できませんが、大棟の長さが115センチ・高さは170センチと記録しました。
写真を撮り終えたので目を地面に落とすと、コケ混じりの土に、まるで置かれたかような古銭らしき物を見つけました。取り上げると赤く錆びています。大きさと四角い穴からは見慣れた「○○通寶」ですが、文字の部分は膨らんでいるだけです。ティッシュでこすってみましたが、どう見ても鉄の赤錆で、銅銭の緑青(ろくしょう)ではありません。
鉄製なら、昔の釘は断面が角ですから、当てはまるのはワッシャー(座金)でしょうか。そうなると、何かの木造物があった可能性もあります。古銭である確率は未だに高いのですが、決着をつけようと持ち帰ることにしました。古銭でも一応賽銭泥棒になるわけですが、今日一日何事も起こらなければ、ホームページで紹介する謝礼として頂くことにしました。
翌々日、ワイヤブラシでこすると文字が確認できました。「寛永以外の可能性も」と期待していましたが「寛永通寶」でした。手元に磁石がないので確認できませんが、確実に鉄です。賽銭専用に作られたのか、あるいは贋金…。
大発見にも繋がりそうな赤い古銭を手にして、まずは基本情報を知ろうとネットで調べてみました。ところが、「銅の他真鍮や鉄製もある」を読んで、この新知識は吸収できたものの、「大発見」は消し飛んでしまいました。
神長官守矢家の『古日記書抜』に、以下のようにあります。
文献には「天正十二年造営」とありますが、御小屋明神の祠は果たして当時のものなのでしょうか。現場は樹下で、紫外線や風雨からは守られています。この標高では、冬季は雪で覆われたままと考えられますから凍害は少ないでしょう。御小屋明神を信奉する神之原山造り衆の保護も忘れてはいけません。石質も硬そうです。
これだけの好条件が揃えば、定説になっている「天正の祠」と言えそうですが、私は昭和12年発行の『諏訪史第二巻後編』の図録に載る異常に白い身舎を見ています。そのため、文献に「天正12年に造った」とあるがために、後世に身舎を造り直した際に「同じ文字を彫り込んだ」可能性を考えてしまいます。
八ヶ岳講座「八ヶ岳の石神仏を見る」に参加しました。御小屋明神がコースに組み込まれていたので、一年後の再訪となりました。
“柳の下の二匹目のドジョウ”を狙って祠の周りをウロウロすると、今回も「文久永寶」を一枚ゲットしました。HP「御小屋明神(御小屋山)」の出来が良かったからボーナスか、と素直に頂くことにしました。古銭としての価値はありませんが、私には宝物となりました。
時々引き出しの古銭を見かける度に、「やはり賽銭泥棒ではないか」とかすかな疼きを感じますが…。
御柱の用材は、古くから御小屋山で伐採してきました。その伐採に先だって安全祈願を行うのが「御小屋明神社祭」です。
ところが、伊勢湾台風で主たる大木が倒れてしまったので、近年は他所で確保しています。ただし、神事だけはここで行うので、写真の光景を6年に一度だけ見ることができます。その詳細は、以下のリンクで御覧ください。