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小野神社と矢彦神社(二つの小野)

小野神社と矢彦神社
矢彦神社←|→小野神社

 菅江真澄は、天明4年(1784)3月16日に小野神社と矢彦神社を参拝したことを『すわの海』に書いています。ここでは、信濃史料刊行会『新編 信濃史料叢書 第十巻』から、その一部を転載しました。文中の和歌を除き、漢字変換してあります。

十六日 頼母(たのも)の神に詣でて拝み巡る。千枝百枝にてうつぼ木多く生ひ繁りて、いと神々(こうごう)たる社の中路を踏み分けて行けば、いろいろの薬(※薬草)あり。
 小野の御社の前には世に異なる鐘をかけて、大檀那諏方四郎神勝頼と書付け給えり。
 矢彦明神の拝み処、清らかに匠(たくみ)なしたり。目も綾なりなど言いつつ、幣(ぬさ)を捧げて出(いず)る。夫木の歌に、

しなのなるいなの郡とおもうにぞ
 たれか頼めの里というらん

小野神社

小野神社「拝殿」
小野神社拝殿

 塩尻市から国道を南下すると、「小野神社」の社号標が迎えてくれました。まず御柱を仰いでから拝殿へと進みます。本殿や副殿は板塀で囲われているため、拝殿脇の格子越しにその一部を拝してから再び御柱の下に戻りました。
 目的を達したことで視野が広がると、左奥にも大きな社殿があるのに気が付きました。足を伸ばすと、別の参道と別の社務所と別の御柱が…、という「別」のオンパレードです。神楽殿の奥にも新たな拝殿があるのを見つけると、「何だこれは」と意外な展開に戸惑いました。「小野には信濃国二之宮がある」という程度の知識でしたから、“目”を以(もっ)て「小野神社の隣は矢彦神社」という事実を学びました。

矢彦神社

矢彦神社本殿
矢彦神社拝殿

 逆になる辰野町からは、「矢彦神社」で同じ経過を踏み「小野神社」を見つけることになります。社殿の構成や規模はほぼ同じなので、ここで初めて小野神社と矢彦神社は線対称で境内を接していることに気が付くことになります。

これがキーワード「二つの小野」 '05.2.15

「両小野」

 「小野神社と矢彦神社」が鎮座する塩尻市大字(おおあざ)「北小野」と、上伊那郡辰野町大字「小野筑(小野)」は同じ「小野」です。これを、言い方を変えて「小野は塩尻市で辰野町です」と澄まし顔でいられるのは、両市町の住民だけでしょうか。
 この“とぼけた”ような「二つの小野」を諏訪圏外からこのページにアクセスしてくれた方に説明すると、「伊那街道小野宿のある小野は市町境で分断されたのがその背景」となります。そのため、双方の小野地区は、行政区画は異なっていますが同じ小野なので、「両(りょう)小野」と呼ばれています。

 以下の地図と空中写真は、『地理院地図 Vector』に名称等を書き入れて加工したものです。

両小野 学校も、市立でもなく町立でもない(市と町が合同出資した)組合立として、「両小野小学校」が辰野町に、「両小野中学校」が塩尻市側にあります。また、現在は「両小野学園」として小・中一貫教育を行っています。
 試しに「両小野学園」として、塩尻市の「市内小中学校の通学区」を閲覧したら、対象が「両小野」と載っていました。そのため、小学校と中学校のいずれかの通学時には必ず越境することになります。因みに、保育園と郵便局・交番も市町境と線対称になる場所にあります。

小野神社と矢彦神社

 上図に示した両神社は、住所というか鎮座地は塩尻市北小野です。ところが、矢彦神社は上伊那郡辰野町小野になっていますから、矢彦神社の境内は辰野町の飛地ということになります。

小野神社・矢彦神社 近世の造作物である学校は、両小野それぞれに分配(配慮)するように建てられました。しかし、神社の方は「既に在りて」です。それに、縁(ゆかり)の地ということもありますから単純に移転することはできません。
 その結果として、伊那総鎮守・矢彦神社は塩尻地籍になりましたが、“所有権”だけは辰野(伊那)側にあるという形に落ち着いたのでしょう。
 祭神と氏子が異なる二社が「両二之宮」として軒(境内)を並べている特異さは、どこかの国の「神殿の丘」のようですが、ここ「両小野」では平和に共存しています。

小野神社と矢彦神社の「社地境界標」

 祭神から「そんなモンといっしょにされては困る」と苦情が出そうな「例え」ですが、男湯と女湯の入口が分かれていても中に入れば混浴という湯治場に似ています。しかし、諏訪大社に「次ぐ」という格式の「二之宮」です。「同じ船に乗っているから」では済まされないでしょう。

小野神社と矢彦神社
 枠が社地境界標

 国道沿いの歩道から、両社の間を眺めてみました。側溝のような小堀がありますから、両社は厳然と区分けされていることがわかります。境内ではただの側溝に見えるので、同格の神社が二つ並んでいるように錯覚してしまうのでしょう。こうなると、「本殿が祭神が」ということより、「境界」の方に興味が移ってしまいます。

小野神社と矢彦神社の「境石」 再び境内に入り、その先を確認しました。最奥には「社地境界標」がありました。本来ならこれを旧筑摩郡・伊那郡境とすべきでしょうが、動かない地理上の境「唐沢川」を採用したため、飛び地として現在に至ったのでしょう。
 矢彦神社の境外を巡ってみました。南参道入口に、個人宅にあるような境石が一本舗装面から頭を出しています。しかし、他には「飛び地」と理解できるようなものはありませんでした。神社ということもありますが、石垣が動かぬ連続境石ということなのでしょうか。
 県歌「信濃の国」に「松本・伊那・佐久・善光寺、四つの平は肥沃の地」とあるように、松本−伊那境に当たる「固めの地」という環境が、複雑な「両小野」と「小野神社・矢彦神社」を作り出したのでしょう。

 平成22年4月20日、5年ぶりに小野神社と矢彦神社を訪れました。
小野神社と矢彦神社の境界標 前回は、側溝の終点「社地境界標」止まりでしたが、その先に延びる小道に気が付きました。
 ここを通る人などいないのでしょう。フカフカすぎて落ち着かない落ち葉を踏みながらたどってみると、中程に二基の社地境界標がひっそりとたたずんでいました。

小野神社と矢彦神社の境界標 最果てには、嫌でも気が付く大きなものが建っていました。「従是(これより) 北小野神社・南矢彦神社 社地境界標」と彫られています。
 「国道側にも同じ物があるはず」と確認してみましたが、…見つかりません。こちらは参道が純然と分かれていますから、必要ないのでしょう。

 冒頭に挙げた『すわの海』「十六日…」の続きです。

この杜(社?)は、此国の二宮と崇め奉る。高橋と言える小さき棚橋のこなたに、水無き沢のこちを束間(筑摩)郡笹化(笹賀)庄、あちは蕗原庄にて伊那郡也。ここに歌う神楽歌に

都まで聞えて久し小野の杜
 八彦のみやはとひふれの神
日はてると笠きてまいき二之宮へ
 小笹のつゆは雨にまさると

今日も此里に泊まる。

小野郷を南方と北方に分割

 神戸千之著『信濃国二之宮 小野神社の研究』から、〔小野郷南方北方に分割〕の一部を紹介します。

 小野郷が南北両小野村に分割されたのは、豊臣秀吉時代の天正十九年十一月である。
 徳川家康の勢力内にいた小笠原貞慶は、天正十年に松本城に入り、筑摩・安曇両郡に勢力を張った。天正十八年に小田原の戦争があり、小田原城が落城した。これに伴って家康は関八州へ転封になった。家康の配下諏訪頼忠等信濃の諸将を関東へ移した。小笠原貞慶は松本より下総古河二万石に転じ、その後へ石川数正が、飯田城へは毛利秀頼が封ぜられた。
 小野郷は石川・毛利両知行の境であったため、毛利氏は小野郷は伊那郡であるから飯田領だと主張し、石川氏は、小笠原貞慶の代に小野神社へ社領を寄進していたから松本領だと、両者間に石高について論争が起こった。この結果は、小野郷を真半分に分割して、南方を毛利氏に、北方を石川氏に与えて論争に終止符をうった。この結果南小野村は伊那郡に、北小野村は筑摩郡に属し今日に至っている。

 地形上では「善知鳥峠」を境とするのが現実的です。しかし、領土ともなれば、それで収まらないのが現実です。