『菖蒲沢之 石佛誌』では犬ですが、“実質”にはオオカミとした石像が「御鍬の森(おくわのもり)」にあることを知りました。その御鍬の森は「鳥居が3基並立している」と知っていましたが、いざ現地に行くと、手前にある稲荷社の林の中を探していました。鳥居が一つしかなかったのに「なぜその中へ」と、…何か化かされた思いでした。
ようやくその前に立ちましたが、右側の鳥居額に「御鍬社」とあります。開拓地とあって、最初に祀った御鍬様の杜を「御鍬の森」と呼ぶようになったのでしょう。どの鳥居から入るべきかと迷いましたが、公平性を重視し、鳥居と鳥居の間を選択しました。
ところが、結果的に「中央」に当たる稲荷社の鳥居を避けることになったのが祟ってか、見回しても、それらしきものはありません。
化かされているというより「盗難」の二文字が現実的ですから、すでに存在していないのでは、と諦めの気持ちが漂い始めました。
ローラー作戦ではありませんが、境内をくまなく探し回ると、社域の右端にチョコンと坐っているのを見つけました。予想より小さなものだったのと、追いやられたような場所にあったことが、目に入らなかった原因でした。
カメラを地面に近づけて、仰ぐ格好で撮ってみました。思い付きのようなアングルでしたが、風化して輪郭が丸みを帯びているためか、遙か昔を偲んでいるような顔を見せてくれました。もちろん私がそう感じただけで、人によっては怖い顔と映るかもしれません。割と写実的なので、道脇に置かれていたら、月明かりの道では悲鳴を上げる人がいるかもしれません。
原村『原村誌 下巻』〔民俗〕から、[原村伝説の記録]の一つを転載しました。
ここでは「供養“塔”」ですが、同じ場所に「オオカミ“像”」があるのを写真で見ていました。
「やはり実物を見なくては」と、ネットで「庚申の森」を調べると、同じ名前のバス停があることからその場所が特定できました。実は、原村の住民となって早40年が経ちましたが、相変わらず村の地理に明るくありません。
自宅から、まだ踏みしめたことがない小路を選びながら中新田へ向かいました。かつては、庚申の森の一部だったのでしょう。県道で分断されたために別尾根となった(と想像してみた)山がありました。10歩程度で登り詰めた小山には左と前方に石塔が並び、県道を隔てた右側の尾根にも墓地が広がっています。
鳥居の前に立つと、背後が墓地という相互関係になります。ここでは、社域と墓域は共存して日当たりのいい南面を向いていることになります。鳥居の向こう側に、金毘羅大権現の神号碑や祭神不詳の石祠二棟、それに馬頭観音像が一基並んでいます。そのすべてを囲んだ形で御柱が建っていますから、どこへ行っても御柱から逃れることができない、諏訪では典型的な眺めとなります。
想像したものより大きいとあって、石のオオカミはすぐにわかりました。
顔を見合わせてから視線を下げると、胸の下に梵字のような「」に続いて「三峯山」と刻まれています。左右には「嘉永二己酉(1849)・四月吉辰(きっしん)」と「講中」がありますから、このオオカミは三峯講で作ったものとわかります。
高さ85cm・幅51cm・奥行77cmと測ってから全体を眺めると、お尻の辺りが何か“微妙”です。つるんとして尻尾がありません。不思議に思って背後に回ると、垂れた尾が基台に沿って前脚まで延びていました。そう、ネコが坐った姿そのものです。しかし、ニホンオオカミは、歩行姿の剥製(の写真)でしか見たことがありません。すでに絶滅したとあって、坐った時に尻尾をどう“処理”したのかを見た人はいませんから、このような姿だと思うしかありません。
この形では「丸いお目々」と表現してしまう眼(まなこ)と、ふっくらした頭部ですから、あの“キツい目”をした精悍な姿ではありません。ただし、前肢の指に長い爪が彫り込まれていますから、やはりオオカミです。
下へ下りてから行き会ったおばあさんから、少し話を伺うことができました。しかし、目の前の「庚申の森」を話の糸口としたので、どうしてもオオカミより庚申の森にある「庚申塔と馬頭観音」に移ってしまいます。それでも、御柱の年に鳥居と御柱を更新することを引き出すことができました。
「梵字のような」を調べたら、三峯神社の本地仏が十一面観音で、種子(しゅじ)が「
」とわかりました。知っても何の得にもなりませんが、つい調べてしまいました。因みに、「キャ」と発音するそうです。
『菖蒲沢之 石佛誌』では、祠を含めた分類名を「宮坂家裏尾根畑の石仏群」としています。本にはフルネームが書かれていますが、ここでは宮坂さん家(ち)の祝神としておきます。
右側の石像が、見た通りそのままの名称「石造犬座像」です。祠三棟は何れも無銘ですが、その内の一つが三峯社としてみました。
高さ39cm・幅19cm・奥行24cmと小型ですが、オオカミと呼んでも不自然ではありません。
長い年月の霜柱による浮沈で徐々に滑り落ち、斜めという現状に落ち着いたのでしょう。逆光で立体感が失われていますが、元々ノッペリした体躯なので、順光でも余り変わりはありません。
自宅で写真を確認すると、前出の中新田のオオカミ像と似ていることに気が付きました。
細部を比べるとすべてが同じ造作ですから、同じ石工(いしく)の作か、どちらかを真似たということになります。両所は合併前の中新田村と菖蒲沢村ですが、まだ人口も少ないので一村に一石屋は考えられません。やはり同一作者とし、こちらは無銘ですが、同じ嘉永の頃に作られたとしました。
人畜に甚大な被害を及ぼすオオカミとあって、人間は、その存在を否定し続けてきました。その一方で、生活の防衛上やむを得ないとしても、生き物を殺す罪の意識を強く感じた人がいたことは間違いありません。しかし、恐怖と憎さの対象であるオオカミの慰霊をなぜするのか、という外の目もあるでしょう。そこで、祟りという「因」を作り上げて供養したのが、伝説「オオカミの供養塔」ではないかと考えてみました。
それとは別に、ここで取り上げたオオカミ像「三題」は、三峯信仰に関わるものとしてきました。それは、三頭とも今は「ただそこに坐っている」として生い立ちは忘れられていますから、伝説より現実的な三峯講に絡めた方が無理がないからです。
そうは言っても、「オオカミは、オオカミを以て制す」三峯信仰なのか、やむを得ず始末した慰霊像なのか…。私は、ただ写真を撮って少しの文を添えることしかできないのが歯がゆいのですが、これにて終わらせることにしました。
『原村誌 上巻』〔寛政から文政期の災害〕から転載しました。意味不明の箇所がありますが、ママとしました。
「オオカミは三峯神社の眷属(御眷属拝借)」と単純に考えてきました。しかし、これを読んで、「狐憑きで三峯神社へ代参した」事例や、狂犬病で死んだ(殺した)「犬の供養塔(像)」の存在も考えねば、とまだ狭い視野を反省することになりました。