「SUWA-ANIMISM/スワニミズム」から誘いがあって、茅野市の米沢(よねざわ)地区を歩いてきました。文や写真にそのメンバーは登場しませんが、背後でワイワイガヤガヤと諏訪のアニミズムを熱く語っている姿を想像しながら読んで下さい。
「米沢ってどこ」を説明すると、余りにも大ざっぱですが、国宝の土偶「縄文のヴィーナス」が発掘された棚畑遺跡がある地域と言うのが一番わかりやすいかもしれません。その米沢に含まれる「旧塩沢村」の集落を縫う昔ながらの道沿いに、火の見櫓が見えます。その直下の辻から山に向かう道をとると、すぐに瀬神社の鳥居が現れました。
舞台の手前に、舞台下の集水槽からオーバーフローした水が流れ込んでいる方形の池があります。片辺にある一群(むら)のワサビを見ながら、水量が豊富なのでしょう、サラサラより瀬に近い音を奏で続けている春に聞き入りました。今年は“四寒三温”と言えそうな諏訪ですが、ここには確実に“盛春”がありました。
瀬神社の境内にある案内板からの抜粋です。
拝殿と本殿の覆屋です。
今日は、ガイドを務めた会員の手配で、「文久元年(1861)大隅流の大工矢崎善司・矢崎房之進によって建造された」という本殿の拝観ができました。
写真には写っていませんが、拝殿と本殿を仕切る扉に丸い「諏訪梶」の神紋が取り付けてあります。案内板では祭神「須勢理姫命」とありますが、これを見る限りは、諏訪明神(または御子神)を祀っていることは明らかです。
案内板の続きには、この疑問に答えるかのように「須勢理姫の夫が大国主命→大国主命は建御名方命の父」という論理で、諏訪神社上社(諏訪大社)と密接な関係があることを主張していますが…。
表虹梁の竜の目は、直近ではランランと輝いているのが確認できます。また、各所に赤い彩色が見られますが、長年の塵が付着していることもあって、それ以外の色は確認できません。基本は素木で、朱だけを塗ったのかもしれません。
本殿覆屋の中には、丸石や石棒が多数奉納されています。私も同行者の話で注目したのですが、この後に巡った旧塩沢村の辻にも丸石が多く置かれていました。「山梨県では道祖神として普通に見られる丸石」を持ち出すと、この辺りの歴史が武田信玄に繋がっているという話も真実味を帯びてきます。
拝殿前から見下ろした茅野市指定有形文化財の舞台です。案内板には「建築年代は天保13年(1842)、棟梁は大隅流の伊藤安兵衛の作」と書いてあります。
逆になる舞台側から見ると、拝殿と本殿が斜面上にあるので、その石段を挟んだ左右が三段構成の壇となっています。現在の劇場にも通ずる桟敷と考えれば、村芝居などの催しでは大いに盛り上がったことが想像できます。
瀬神社の見学の後は、本殿裏から山裾、再び集落を周遊するコースの中で、各所にある石造物や祝神などを見学しました。
ここで参拝記を終えるつもりでした。ところが、資料などを読んでいるうちにアレコレと“妄想”が膨らんで収まりがつかなくなりました。ここでタブを閉じても構いませんが、引き続き付き合って下さる方は以下に進んで下さい。ただし、各所に“私見”を織り込んであるので、「何言ってるんだー」などと突っ込みを入れながら読んでも構いません。
米澤村村史編纂委員会の同書から、〔米沢地域の山城〕[塩沢城]を抜粋しました。
「(諏訪神社・瀬神社)」は著者が挿入したものですから、私は「合祀または祭神の交代が行われた」と読んでしまいます。
次は、〔米沢の神社〕から[瀬神社]を抜粋しました。前半部分は、瀬神社の案内板とまったく同じ文面ですから、平成18年発行の『米澤村村史』が茅野市教委の文言をそのままコピーしたことになります。
改めて「瀬神社の…」の件(くだり)を読んで、《こんな安易な発想で神社名を決めてもいいのだろうか》と疑問を持ってしまいました。しかし、当日頂いた資料には、出典として「文化10年11月、神長官神実延氏の社記」を挙げています。この『社記』を自分の目で確認できない今は、私の率直な感想をこのまま附記しておくことにしました。
「深い関係にあった」も、何とか(現在の)諏訪大社に関連づけしようとする意図が(私には)読み取れます。「縄文時代の昔から豊富な湧水があり、これを水神(瀬神社)として祀った」ことだけで十分と思いますが、他村(北大塩・鋳物師屋・埴原田)と違い、塩沢には、余所者にはとうてい計り知れない諏訪神社に対する思いがあるのかもしれません。憶測ですが、何か政治的な意図で、民意を無視して諏訪社を瀬神社に替えたという史実があった可能性があります。ここら辺は、塩沢の人達が一番わかっているのかもしれません。
前出の文には続きがあります。
[塩沢城]では「社方に鎮守様を勧請」とありますが、引用元であるこの書き下し文では意味が通りません。
幸いにも「萬覚控帳の古文書」と題した影印が添付してあるので、どちらの記述(書き下し)が正確なのか照合してみました。しかし、私の読解力の無さがわかっただけで、書き下し(読み下し)が不正確とも、「萬覚控帳」を書いた本人の“悪筆”とも判断がつかない結果となりました。
また、「享禄年中に諏訪神社を勧請した」とすれば、瀬神社の古態が諏訪社と納得できるのですが、著者が「社方」に(諏訪神社)を挿入した根拠が書いてないのであやふやになっています。
これだけの古社ですが、嘉禎3年(1237)の『祝詞段』にある「北大塩に十五社諸大明神・山明神・タキリ権現・キタリシヨノ権現・三ツノ深山駒方明神」が当てはまりません。やはり、「この」神社は享禄年中以降に造営されたと見るほうがいいでしょうか。その際に、「瀬神社遺跡」の内容から、「古くから湧水そのものを神体とする信仰があった」ことをベースにしたことは十分に考えられます。
この二書は、祭神を伊弉冊神としています。
瀬神社には御柱が建っています。米沢では御柱を建てないと聞いたので、記憶にあった幕末の書『諏訪郡諸村並旧蹟年代記』を開いてみました。
『米澤村村誌』の[小宮の祭典]で確かめてみました。
瀬神社は、米沢でも“特殊な神社”ということになります。“突っつく”のが好きな私は、小宮祭でどうしても御柱を建てたいがために(他地区からの突き上げの言い訳として)“諏訪大社と深い関係がある”を謳ったのではないかと考えてしまいました。もちろん、これは憶測です。
諏訪史談会『復刻諏訪藩主手元絵図』から「塩沢村」の一部です。ここでは、瀬神社が「氏神」として書かれています。他村に見られる「鎮守」でないのは「塩沢氏の氏神」という意味合いでしょうか。
左に「うの木の山ノカミ」とありますが、現在は本殿後方の斜面にある山ノ神と思われます。卯木が傍らにあったのかもしれません。
絵図の右端に「小岩◯」があります。枠外に「大岩花」を見つけたので「小岩花」と読めました。
現地で、ドリルの穴が無数に残っている「岩を削った崖」を見ていたので「岩端(鼻)」の転化と理解できました。改めて『米澤村村誌』を開くと、「大岩鼻・小岩鼻」の地名が各所に出ていました。特異地形が地名となったと思われます。
古くから自噴していた温泉と聞いていましたが、改めて、絵図にも描かれていることを知って驚きました。『塩澤村村誌』には「戦国時代、塩沢将監は自噴していた湯口に湯壺を伏せ入湯できるようにしたが、ある日その娘が湯壺に落ちて死亡するという不祥事が起こった」とあります。現在は、入浴施設「塩壺の湯」として盛んに利用されています。