中世に書かれた『祝詞段』に、塩尻市・辰野町鎮座の小野神社・矢彦神社を詠ったフレーズがあります。
ここに出る「トヒヲカ(飛岡)」を調べる中で、同書には、諏訪にも「飛岡」があることを知りました。
しかし、湯川・柏原・中村は何れも茅野市の旧村とわかりますが、私の知識には「トヒ岡村」がありません。こうなると、生来の“追求”心がフツフツと沸き上がってきます。しかし、天正6年(1578)の『芹ヶ澤富岡問答日記(寫)』と名付けられた古文書に出る「富岡」が「飛岡」らしいとわかっただけで、早々に行き詰まって終りました。
「飛岡は、北山小学校の近く」という情報から、現在は、芹ヶ沢にある子之社とわかりました。さっそくGoogleマップで拡大すると、参道に幾つかに別れた石段が表示します。Earthに切り替えると森で覆われますから、小山の頂部にある神社を想像しました。
一方で、集落の中を通って社殿の直近まで行かれそうな道もあります。しかし、「ここは一つ正規の道で」ということで、あくまで地図上の表示ですが、石段がある表参道を選びました。
「天保十五年」の銘がある幟枠に寄せて駐めました。ところが、車道の奥まで歩いても、思い描いていた景観がありません。「おかしいな」と思いつつ戻ると、谷側に手すりが見えます。幟枠がある場所です。覗き込むと石段があり、鳥居も見えました。「鎮守社は集落を見下ろす」というのが私の概念ですから、登るつもりが下るという展開に戸惑いました。
最下段から見上げた参道です。自宅で再確認したら、Googleマップには石段が「4段」ありました。“その通り”だったので、敬意を表して、写真に段(━)を入れてみました。
どこから流れて来るとも知れない二つの沢を渡って最下壇に立つと、見下ろしていた拝殿が正面になりました。
この特異な地形と参道ですから、まずは拝殿の“裏”が気になります。拝礼もそこそこに背後に廻ると、…その先は切れ落ちています。底を覗き込むと(後でわかった)渋川が流れていました。
「原初は、水神を祀っていた」と断定できる社殿の向きですが、文献では750年も前から見られる古社です。現在の景観を見て、あれこれ当てはめるのは無理としました。
拝殿の扉は、格子の裏に硬質の樹脂シートが貼ってあります。かつては透明だったと思われますが、現在は乳白色ですから内部を窺うことはできません。
一旦は諦めましたが、破れた部分を補修したテープとの間に隙間があることに気が付きました。カメラを近づけると、外周部はボケボケですが、本殿ははっきり見えます。1センチの隙間があれば、ある程度離れた(奥にある)被写体なら撮影できることを学習しました(レンズと絞りの関係を考えれば当然のことですが…)。
『諏訪藩主手元絵図』の〔芹ヶ沢村〕では、「うぶすな(産土) 宮」と書いてあります。しかし、芹ヶ沢の集落とは関係ない方へ向いており、しかも“隠し”神社という様相です。これが、冒頭の「トヒオカ・トヒ岡」と重なります。何らかの理由で移転したのか、大きな地形変動があったのか、…不思議です。
帰りに直行した図書館で、芹ヶ沢誌編集委員会『芹ヶ沢史』を借りました。本来ならこの本を携えて行くのがベストですが、急な思い立ちと、自宅からの道順で今回のコースとなりました。
〔芹ヶ沢の発祥〕からの抜粋です。
諏訪史談会『諏訪史蹟要項 北山村篇』の〔村社芹ヶ沢子之社〕から抜粋しました。
「他の子之社」とは、芹ヶ沢村から出た糸萱(いとがや)新田村の「折橋子之社」のことでしょう。もっと言えば「北山にある子之社の総本社」となりますが、これを口に出すと、湯川と柏原の氏子から猛反発を食らうことになります。しかし、飛岡地籍は湯川村にあるので、その可能性は否定できません。
再び、『芹ヶ沢史』〔子之社〕から抜粋しました。
私が使った石段は、最近のものとわかりました。ただし、幟枠と鳥居は天保のものですから、参道は当初からあったとことになります。
『祝詞段』から推すと、子之社は芹ヶ沢から離れた小高い場所──即ち飛び地にあったように思えます。伝承では度々大規模な水害に見舞われたとあるので、川を祀る神社として現在地の川辺に移転したということが考えられます。