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鉄古稲荷社(鉄古塚古墳) 茅野市上原頼岳寺 '17.3.4

頼岳寺「鉄古塚古墳」 頼岳寺の山門をくぐると、正面は普通に本堂ですが、境内左手の山際に鳥居があります。寺院に神社があるのは珍しいことではありませんが、これだけ大きな鳥居を目にすれば、やはり奇異な印象を持ってしまいます。
 赤い格子戸も否応なく目に付くので「おやおや」と近づくと、露出した大石の組み合わせと小尾根の先端という立地から、古墳の横穴とわかりました。

 茅野市教育委員会『上原城下町遺跡』〔縄文時代から平安時代の遺跡〕から、関係する部分を抜粋しました。

 古墳時代に入ると永明寺山周縁には多くの古墳が作られる。『諏訪史第一巻』『茅野市史上巻』によると、8基の古墳が確認されている。全て永明寺山腹に位置し、薬師堂古墳、武将の古墳、藤塚古墳と、上原矢穴1号〜4号古墳、鉄古塚(てつこづか)古墳の2群に分類されている。
 これらの古墳の内主体部構造、出土品が判明しているものは武将の古墳、鉄古塚古墳だけでありその実態は不明であるが、7世紀位の群集墳としての性格が想定されている。
 これらの事柄より古墳時代には上原地区に大きな集団が居住していたことが窺え、これらが平安以降の集落の展開へ継続して行くものと捉えることができようか。

頼岳寺の鉄古稲荷社 格子戸から覗き込むと、篠竹を軸にした幣帛が何本も床に突き刺してあるのが見えます。その奥に赤い祠がありキツネの置物も確認できたことから、「多分」が稲荷社と確定しました。
 幣帛に、こちらは鉄「甲」ですが、「頼岳寺御守護鉄甲稲荷」「頼岳寺御守護稲荷大明神」などが読めます。自然光で撮った写真ですが、紙垂の白さが際立っています。現在も、頼岳寺で祭祀が行われていることがわかります。

頼岳寺「鉄古稲荷社」 上写真では小さく写っているキツネの石像です。顔が傷み、前脚も折れているのがわかります。
 故意に倒しても、下は土なので破損はしないはずです。石室内は鉄骨で強固に補強してあるので、天井石の落下に巻き込まれたのかもしれません。

 頼岳寺の鎮守社は、上原城址にある金比羅神社です。そのため、「祭神が競合してしまうのでは」と、他人(ひと)ごとながら心配してしまいます。これは、頼岳寺の創建前から存在していた(古墳内に祀られていた)稲荷社を、寺域を鎮める土地神として“活用”したと考えてみました。

「鉄古」と「鉄甲」

 名称の鉄古稲荷社と鉄古塚古墳ですが、幣帛にある「鉄甲」から、かつて「鉄甲(兜)」が発掘されたことに由来すると考えてみました。確認を取ると、『茅野市史 上巻』の〔古墳時代〕では、「副葬品は伝えられていないが、鉄甲(甲冑(かっちゅう)の出たことから鉄甲塚の名がついたとの説もある」とありました。