頼岳寺の山門をくぐると、正面は普通に本堂ですが、境内左手の山際に鳥居があります。寺院に神社があるのは珍しいことではありませんが、これだけ大きな鳥居を目にすれば、やはり奇異な印象を持ってしまいます。
赤い格子戸も否応なく目に付くので「おやおや」と近づくと、露出した大石の組み合わせと小尾根の先端という立地から、古墳の横穴とわかりました。
茅野市教育委員会『上原城下町遺跡』〔縄文時代から平安時代の遺跡〕から、関係する部分を抜粋しました。
格子戸から覗き込むと、篠竹を軸にした幣帛が何本も床に突き刺してあるのが見えます。その奥に赤い祠がありキツネの置物も確認できたことから、「多分」が稲荷社と確定しました。
幣帛に、こちらは鉄「甲」ですが、「頼岳寺御守護鉄甲稲荷」「頼岳寺御守護稲荷大明神」などが読めます。自然光で撮った写真ですが、紙垂の白さが際立っています。現在も、頼岳寺で祭祀が行われていることがわかります。
上写真では小さく写っているキツネの石像です。顔が傷み、前脚も折れているのがわかります。
故意に倒しても、下は土なので破損はしないはずです。石室内は鉄骨で強固に補強してあるので、天井石の落下に巻き込まれたのかもしれません。
頼岳寺の鎮守社は、上原城址にある金比羅神社です。そのため、「祭神が競合してしまうのでは」と、他人(ひと)ごとながら心配してしまいます。これは、頼岳寺の創建前から存在していた(古墳内に祀られていた)稲荷社を、寺域を鎮める土地神として“活用”したと考えてみました。
名称の鉄古稲荷社と鉄古塚古墳ですが、幣帛にある「鉄甲」から、かつて「鉄甲(兜)」が発掘されたことに由来すると考えてみました。確認を取ると、『茅野市史 上巻』の〔古墳時代〕では、「副葬品は伝えられていないが、鉄甲(甲冑(かっちゅう))の出たことから鉄甲塚の名がついたとの説もある」とありました。