『諏訪郡諸村並舊蹟年代記』〔一、大塩村〕から抜粋しました。
玄関先でくつろいでいるお年寄りがいます。先ほど参拝した御頭御社宮司社の案内板に「上社と下社がある」とあったので、目の前の神社が「下社」なのかを尋ねました。
ダメ押しのつもりでしたが、予想外の「八剣神社」と言います。地図に八剣神社の表示はありましたが、これほど近くにあるとは思っていませんでした。御社宮司社が二つあることは否定しましたが、八剣神社について面白い話を聞くことができました。前の家を指して「熱田から来た人で…」と淀みなく続きます。
以下は、南大塩の歩み編集委員会『南大塩の歩み』から〔八剣神社〕を紹介したものです。ほぼ同じ内容なので、正確さを期すためにこちらを載せました。
彼は鳥居前の住人ですから、得た知識を事ある毎に吹聴したので、すっかり諳(そら)んじたのでしょう。もしかしたら、この人が“大原典”…。
貴重な話を頂けたので、素通りする手はありません。鳥居からちょっとした斜面を上ると、覆屋の中に本殿がありました。
一間社流造ですから、巻(同族)の祝殿としては本格的な社殿です。
板の格子で囲われているので社殿の全容は見にくいのですが、隙間から差し込んだカメラはしっかりと写し取ってくれました。
二基ある灯籠には「宮坂氏子中」とあるので、正(まさ)しく宮坂姓の氏神であることが裏打ちできました。かなりの名家と思われます。
「諏訪の八剣神社」と言えば、小和田にある「八劔神社」でしょう。旧県社という格式の高さと諏訪大社との深い縁から、知名度はこちらが圧倒的です。その本社が、八ヶ岳山麓にある「ただの祝神」であったとは驚きました。「総本社・諏訪大社の総々本社が旧神長官邸にある御社宮司社」というようなものでしょうか。
前出〔八剣神社〕の続きです。
ここには、小和田八劔神社の「言い分」も載せていますが、それは疑問としています。よくある「本家」争いですが、改めて、嘉禎三年(1237)の奥書がある『祝詞段』を読んでみました。
文献では鎌倉時代の中期頃には両八剣神社が鎮座していたことになりますから、どちらが古いとは断言できません。やはり、「よくわかっていない」と結ぶのが一番よいでしょうか。
Googleマップに付加した「棒道(━)」と「縄文の道」との交差点に、南大塩区が設置した「茅野市文化財 信玄の棒道」の案内板があります。
抜粋ですが「この棒道は室町時代、武田信玄が川中島合戦で上杉謙信と戦ったとき甲斐の軍勢を現在の松代(川中島)へ進めるために整備した戦いの為に作られた軍道である」として、その一つである「下の棒道」のコースを挙げています。
この近辺は「…塩ノ目−南大塩(千本木坂−鎧兵坂)−芹ヶ沢…」ですから、八劍神社の脇を通っていた道に相当します。そのため、武田信玄が行軍の途中で八劍神社を参拝したことも考えられます。
その道に惹かれましたが、車道や民家に阻まれて、実際に歩けるのは━の部分だけでした。