文出(ふみで)の御社宮司社だけでは片手落ちなので、八剣神社も参拝することにしました。カーナビにその場所をセットし、言われるがままにその前に到着しました。駐車場がないので玉垣ギリギリに寄せましたが、道向こうが民家の入口なので迷惑がかかりそうです。境内横の田圃との間がかなり広いのに気が付き、そこを駐車場代わりとしました(このページを読んで八剣神社へ行く人はいないと思いますが、参考までに)。
境内に「由緒書」がないので、豊田村誌編纂委員会『豊田村誌 下巻』〔第八章 信仰〕から「八剣神社」を抜粋して紹介します。
御社宮司社もそうですが、八剣神社は平地にあるので、諏訪の神社とすれば若干の違和感があります。山城から平城への変遷と同じで、諏訪湖を干拓してできた村の鎮守社というのがその要因でしょう。現在の地勢からは嘘のような話ですが、かつては諏訪湖の満水や「氷津波」に見舞われ、村の存亡に関わるほど疲弊したこともあったそうです。
直接には関係ありませんが、由緒の「スイナ池と阿原の湿地であり、鳥獣の猟場だったようで藩の重臣たちがよく猟に来たという」を読んで思い出しました。諏訪へ流された松平忠輝が「密かに抜け出し、文出から田部にかけて狩猟を楽しんで流人の身を慰めた」というものです。高島藩も、徳川家からの預かりとあって、かなり大目に見ていたのでしょう。
「土足厳禁」なので靴を脱いで昇壇し、扉の格子越しに本殿を撮りました。まだ白木の香りが残っていそうな拝殿の中での黒い本殿に、一瞬ですが戸惑いました。
新しい拝殿と古い本殿の取り合わせが珍しいということもありますが、本殿がしっかりと拝観できたことが久しぶりだったということかもしれません。
祠の下と基台の隙間に差し込まれた二枚の木札は判読できませんが、横に置かれた一枚に「三峯神社祈祷之神璽」と読め、三峯社と確定できました。
「有効期間」が一年間であっても、なぜ御神体とも言うべき御札が雨ざらしになっているのかは想像もつきません。ただし、文字が判読できる御札が、「最後の御眷属拝借」になったことだけはわかります。
それ以降に三峯講が解散したので、神体が不在のまま、御柱を建て替えてきたということでしょう。それにしても、初めて諏訪に来た大口真神が、いきなり御柱を建てられて迷惑したのは想像に難くありません。