『諏訪郡諸村並旧蹟年代記』〔一、粟澤村〕に、「桜湛木」の記述があります。
ここに出る「天伯宮にある桜湛木」については、すでに紹介しているので省きます。
今で言う大字(おおあざ)「和田」字「日向」の地を『諏訪藩主手元絵図』で覗くと、「天白宮」に並んで「御社宮神(みしゃぐじ)」がありました。
左図は『絵図』の右頁(それも一部)とあってわかりにくくなっています。そのため、「両社が鎮座する小尾根は左頁(南)へ続き、その末端には粟沢観音がある」と説明を入れました。
2007年にその場所に立ちましたが、「桜湛木跡」が目的だったので、御社宮司社は背景の一つとしての存在でした。今日は『絵図』に載る御社宮司社として、15年ぶりに訪れてみました。
〔粟沢村〕には鎮守社の氏神宮(矢作社・武田八幡社)・山神と天白宮・御社宮神の四社が書かれています。そのことから村を代表する神社であることに間違いありませんが、現在は石祠と御柱のみの景観になっています。
右側の御社宮司社にそれを表すもがないかと覗き込みますが、一字も彫られていません。前面のみに朱が塗られているのが確認できただけでした。これで、標題『旧粟沢村の御社宮司社』を立てたものの、これ以上の紹介はできないことになりました。
上記は、冒頭に挙げた『諏訪郡諸村並旧蹟年代記』に載る別の記述です。こちらも無銘なので、「田中一統の祝殿」が唯一の消息となりました。
続く「田中淡路守居住之處」ですが、『絵図』では似たような「諏訪越中守/御ヤし記/此所畑」を書いているので関連性を思いましたが、「田中と諏訪」は繋がりませんでした。
帰りは、現地からは対岸と言える場所に見えた道を選びました。何回か振り返ると、目的とした和田の「日向(ひなた)」に鎮座する両社の立地を撮ることができました。