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半ノ木権現 岡谷市半ノ木

半ノ木と半ノ木権現

権現社

 Googleマップで「鎮神社(気狂宮)」を調べる中、字(あざ)「半ノ木」に、ローカルガイドとして投稿された「権現社」を見つけました。ただし、説明がないので写真のみの神社で終わりました。


はんの木権現と瀧沢権現

 『諏訪藩主手元絵図』(以降は『手元絵図』)に「権現」があったのを思い出して確認すると、「はんの木権現」と「瀧沢権現」でした。

はんの木権現
諏訪史談会編『復刻 諏訪藩主手元絵図』〔岡谷村(部分)

 その「はんの木権現」が「権現社」に相当しますが、写真では石祠一基のみとあって大きな落差を感じてしまいます。
 しかし、『手元絵図』では神社名が書かれており、旧間下村の鎮守社「間下十五社神社」に次ぐ神社という位置付けですから、その時代では重要であったことは間違いありません。この絵図に、関連する神社名を附箋で貼ってみました。

岡谷村
県立歴史館蔵『第十三大区小一区諏訪郡 岡谷村(部分)

 思いついて、先日参照した明治7年製作の村絵図を並べました。同じ場所に鳥居の凡例がありますから、明治初頭でも両社を「岡谷村の絵図に載せるべき神社」として認識されていることがわかります。
 何れも水源として描いているので、村では不可欠な水神として崇められていると理解できました。因みに、ここでは「タカサワ・タキノ沢」を書いていますが、現在の地図では「大川・瀧沢」でした。

半ノ木権現社参拝 '23.3.4

 「鎮神社(気狂宮)」を現地踏査する際に寄ってみました。

⇩権現社
半ノ木権現
大川(間下よきとぎ沢)

 散在する人家や事業所が途切れ、この先は山中という山懐の小沢を挟んだ斜面に、御柱に囲われた祠がありました。

半ノ木権現 その傍らに立つと、かなり傾いているのがわかります。向拝柱も折れたものを原状復帰させただけに見えるので、振動を与えないようにして周囲を観察します。しかし、銘がありません。
 ここで、冒頭に書いた投稿者が「権現」と名付けた根拠が何に依るものかという疑問が湧きましたが、思い当たるものが無いままで終わりました。

半ノ木は棚田だった !?

半ノ木
地理院『地図・空中写真閲覧サービス』〔岡谷(一部)〕

 前出の村絵図では、「ハンノ木」の大部分を田で表示しています。これに疑問を持ったので、昭和23年9月撮影の航空写真をダウンロードしました。
 これを見ると、明治初期の状況から、江戸時代の後期でも棚田が広がっていたことが想像できます。その要因は、「沢水が豊富だった」の一言に尽きるでしょう。

 『手元絵図』が編纂された江戸時代中期では、どの辺りまで開墾されていたのかはわかりませんが、少なくとも、平地に広がる田の水源として重要視されていたことはわかります。それが『手元絵図』や村絵図に反映され、令和の世に私が参拝する切っ掛けになったことになります。

御鍬様

 権現社の背後の山を登ってみました。「こんな所に道が」という林道の上部に鳥居が見えます。近づくと、御柱の木札から「御鍬様」と知りました。
 豊作を祈る神社が山中にあるのが不思議ですが、半ノ木が古くから開墾されていたと考えれば、納得もできます。