定番の『諏訪藩主手元絵図』です。「上川」との位置関係を示すために縮小すると読めなくなるので、関係する部分を拡大して並べました。
豊平村誌編纂委員会『豊平村誌』〔神社仏閣〕から、そのママを転載しました。
文中の「根元記並ニ祝詞段…」ですが、『諏訪史料叢書』から「…粟澤鎮守・福澤ニ御社宮神・埴原田チカト・北大塩ニ十五社諸大明神…」を挙げてみました。
埴原田(はいばらだ)から「新橋」を渡ると、福沢の集落です。
すぐに「福沢諭吉翁祖先発祥の郷由来碑→」の看板が現れ、小公園の一画に石柱「福沢諭吉翁 祖先発祥の郷」が見られます。翁の「祖先発祥の由来」とある説明板を読むと「福沢氏の先祖は信州福澤村の人なり…」と書かれていますから、初めての人は戸惑うでしょう。
13年前は初めての人に相当した私ですから、すでに調べてあります。石河幹明著『福沢諭吉伝 第1』では「福澤氏記念之碑に“福澤氏の先祖は信州福澤(地名)の人なり”」とあり、「村」とは書いてありません。
『諏訪史蹟要項茅野市豊平篇』〔福沢諭吉先生先祖の地ということ〕でも「諭吉先生碑に自書して『福沢氏先祖ハ信州福沢地名の人なり』とある。その所を知らず」ですから、果たして福澤村に当てはめていいのかと心配になります。そのため、この件についてはこれ以上触れないことにしました。
『豊平村誌』では「御柱は立てず鳥居の建替えをする」と書いていますから、前回参拝時の写真を並べてみました。
鳥居が石造に替わっていました。鳥居の式年造営を知る人には納得の光景でしたが、やはりみすぼらしいとして石造りにしたのでしょうか。噂では、「小宮祭で御柱を曳行するが、建てることはしない」と聞いていますが…。
覆屋上部の開口部は、窓ガラスになっていました。その反射で本殿を撮ることはできませんが、前回カメラに収めたものがあったので載せてみました。
背後からの限定されたショットですが、これが延享四年(1747)造営という本殿です。脇には、千鹿頭神社と同じササが見えます。
期待した拝殿からは、扉があって本殿の正面は不可視になっています。
諏訪梶の透かし彫りがありますが、諏訪では「ミシャグジは諏訪明神の御子神」という捉え方なので、こうなるのでしょう。
『豊平村誌』〔昔の山浦〕は、「小字名に別当というのがあり、どこかの『別当』の住居があったとすれば、こちらは案外福沢の起源につながるものかも知れない」と書いています。
それを受けて、〔茅野市豊平古跡図〕に載る「別当」を福沢発祥の地と考えました。堤防の整備が進むにつれて高台から上川沿いに移って落ち着いたと考えることに無理を見いだせないからです。受け売りを少し発展させただけですが、これが福沢の成り立ちでしょう。
それを補強できるのが、かつての社殿の向きです。前出の『豊平村誌』は「北」と書いていますから、かつては山裾に並行して北に向いていたことがわかります。これは、上川左岸に沿って細長く伸びる福沢集落は、北から南に発展してきたということになります。
社殿を上川の方向を変えたのは、明治になってその中心地が御社宮司神社の近辺となったと理由付けできますが、果たして、そんなことで神社の改変ができたのでしょうか。
これを読んで、福沢の集落を守るが如く上流に向かって延びる石積みの堤防が、明治38年の築造とわかりました。
また、当時としてはまれに見る大工事だったことから、その竣工を祝って、福沢の集落を見下ろす(鎮護する)方向に社殿を建て直したとすれば、なるほどと思えます。
現在の地図にはありませんが、「明治四十三年(1910)測図昭和六年要部修正…」とある五万分の一地形図『諏訪』を眺めると、その堤防が表示します。
凡例には該当するものが無いので、当時としてはかなり特異な堤防であったと考えました。