諏訪史談会『諏訪史蹟要項十 長地村篇』に、〔長地村 中屋・中村・横川・東堀〕とある踏査図があります。ここに御社宮司社が七社あるのを見て、「長地村の御社宮司社 平成の大踏査」を行うことにしました。
その前に立ちはだかるのが、鎮座地探しです。白地図同様の踏査図とあって難航を覚悟しましたが、点線の道が思いの外正確だったので、すべてが特定できました。昭和31年の状況を平成30年に伝えてくれた諏訪史談会の皆さんには、もう頭を下げるしかありません。
当時の小萩神社は、出早(いずはや)神社と合併する前です。それに近い昭和23年の航空写真をダウンロードし、これに踏査図を並べてみました。
大小の住宅が整然と並んでいる現状からは想像もできませんが、「昼なお暗い」と言われた小萩神社の広大な杜が確認できます。
〇御社宮司社
小萩社の入口前字(あざ)「御左口」にあるもの。
小萩神社は、旧趾として公園になっています。一方の御社宮司社ですが、その“上”には高層の市営住宅が建っています。ストリートビューで覗き込むと、…中央部に壇があり高木が一本あります。「その根方に今も…」と期待することにしました。
踏査図にある「真秀寺」と同じ敷地にある横川公会堂に出向きました。駐車の許可を兼ねて館長にお伺いを立てると、「すでにない」と言い渡されました。それでも「団地の鎮守社に変身して…」と現地に乗り込みましたが、根方には芝生が生えているだけでした。
横川区誌編纂委員会『横川区誌』〔信仰行事〕にある[巻のお祭り]に注目しました。
御社宮司社(小萩下)
巻/山田 戸数/七 例祭日/(現在、姥ふところ)
項目とは合致しない内容ですが、小萩から(字)姥ヶ懐に移転したと解釈できます。
〇御社宮司社
榎田にあるもの。
この御社宮司社は、ピンポイントで確定できていました。ところが、車道の先は袋小路とあって、民家の敷地内を通らなければ到達できそうもありません。踏査図にある点線の道を伝って背後に回り込んでみましたが、同じ状況です。
最も近いと思われる事業所の敷地に歩みを進めると、建物の間に鳥居が見えました。
その足で事務所に向かいます。しかし、問うた答えが考え込む姿とあっては、強行突破しかありません。敷地内通行の許可を得てから奥に向かい、地主には見られたくない田畑の畦上を歩くと、ようやくその前に立つことができました。
写真では鳥居に隠れていますが、社殿左脇に立派な神号碑があります。「御射宮司神社」と彫られ、「官幣大社諏訪神社宮司従六位正光書※」と添え書きがありました。
巻(まき)の神社ですから、立入はもちろん、写真を撮ることさえためらうものがあります。拝礼の後、ミシャグジ様に諸々の許可を願い上げてみました。それで済む話ではありませんが、そうすることしかできません。
覆屋内にある御柱の余材と思われる木柱に、「井上姓」が読めました。公会堂の館長が言っていた「井上巻」と『横川区誌』に載る「巻/井上・十五軒」が一致し、正式名称が「井上巻御射宮司神社」となりました。
神社の前を汐(せぎ)が横切り、石橋に「大正六年宿番寄進架橋」と読めます。「宿番」から、『横川区誌』にある「宿はめいめいの家を回った。(戸数が多いと)一代に一回か二回番が当たるので、気張って準備をした」という話が理解できました。
境内から見回しても公道と言える道がないので、汐の土手上を伝って堂々と歩ける道に戻りました。
『横川区誌』にある、井上巻御社宮司社の写真です。最新のGoogleマップ(ストリートビュー)でも大木が繁っているので、「おやっ」と思いました。撮影日を確認すると2012年5月ですから、その後に伐採したことになります。
管理上の負担など様々な理由が考えられますが、神社の景観としては残念な結果となりました。