諏訪史談会『諏訪史蹟要項十 長地村篇』の踏査図〔長地村 中屋・中村・横川・東堀〕を眺めると、下ノ御社宮司社があります。「上ノ」があるので「下」があっても不思議ではありませんが…。
本文を参照すると、次のようにありました。
諏訪では「元、御社宮司」という神社も多いので、この一行にも満たない情報ではどう捉えていいのかわかりません。踏査図を参照しながらGoogleマップを眺めると、御社宮司社ではなく金山神社がありました。
下諏訪岡谷バイパス直下にあるその鳥居を自分の目で確認し、初めて、“ここ”に神社があることを知りました。
倉庫状の長い建物脇を通る小道を伝って、「金山社」とある鳥居をくぐります。
一壇上がった玉垣内に石祠があり、左の祠に「金山社」が読めました。しかし、この状況を前にしても、金山社の祭神が御社宮司なのか、右の祠が「下ノ御社宮司社」なのかはわからないままです(そのため、以降は「金山社」と表記します)。
石祠の後に、磐座と思われる石と、側面に謂われが彫られた「青面金剛」碑が並んでいます。
これだけコンパクトにまとめられているのを見れば、バイパスの新設工事で、社地が再編成された可能性を思ってしまいます。
神社の前方に用水路が二筋流れ、バイパス下を「横汐(せぎ)・本汐」の銘板があるトンネルで抜けています。
横汐を覗くと水路脇に歩ける部分があるので、そのままくぐってみました。そのスペースが土手上の道となって続いているのを見て、その先を究めることにしました。
前方に、チェンソーをせわしく動かす姿が見えます。遠慮して少し戻り、上に並行する小道に行き先を託しました。「この道が『絵図』にある古道ではないか」と思いながら墓地の脇を通ると、横川保育園です。ここから適当な道を選んで、湖北トンネル入口にある天白社を目指しました。
『諏訪藩主手元絵図』の〔西山田村〕開くと、西の端に「出早明神(出早雄小萩神社)」があります。その横(東)を南に下る道沿いに、文字だけの「御社くぢ」があります。当初はそれを「上ノ御社宮司社(御射宮司神社)」に当てはめていましたが、何かしっくりしないものを感じていました。
それが、金山社の近辺を歩いたことで、二百八十年の時代差を整合する光が見えてきました。
明治四十三年測圖昭和六年要部修正測圖」とある内務省の地図(一部)を用意し、改めて、小萩神社と真秀寺の間の道を北にさかのぼると(━)、出早雄神社から離れた山中(姥ヶ懐)に向かいます。逆に、出早雄神社脇の道を南にたどってみると(━)、絵図のように交差しました。
これで『絵図』の川が汐となり、「御社くぢ」が「金山社」と確定しました。その鎮座地は現在地とし、で表示させました。因みに、この地図の二本破線は「間路」で「道幅一米以上二米未満」でした。
横川区誌編纂委員会『横川区誌』では「金山社 巻 / 山田 戸数 / 四 例祭日 / 十二月八日」とあるように、あくまで巻の神社です。そのため、金山神社は一般的には鉱工業の神社ですから、「農業主体のこの地に、なぜ金山神社?」と思ってしまいます。
茅野市金沢の権現の森にある「金山神社」は、金鶏金山と関係があると言われています。それにヒントを得て『横川区誌』を読み直すと、〔諸業の変遷〕に、同じ武田信玄が登場しました。
しかし、この状況では、横川の金山社に結びつけるのは無理でしょう。さらに追求すると、〔横川年表〕に
とあるので、この製糸工場の守り神として同名の金山社を勧請したことが考えられます。また、上の原小学校の東北に鎮座する大山祇社の境内にも金山社があり、『記』には
とあり、横川区に金山社を勧請した謂われを書いています。
このことから、「巻の一軒である金山製糸の社長が御社宮司社の境内に金山社を勧請した。その後、商売繁盛の御利益を優先したが為に“主従”が入れ替わった(金山社の呼称になった)」という流れが見えました。
赤の他人が巻の神社の歴史を勝手にのぞき見たことになりましたが、これで、金山社と並んだ右の祠が下ノ御社宮司社、または江戸時代の「御社くぢ」と確定しました。