『神長守矢氏系譜』(以下『系譜』)にある「・社掌…」を、原文を損ねない程度に書き直して転載しました。
・社掌(しゃしょう)武居伊織氏云う。洩矢社の藤・三澤の里荒神社 藤島大神、両社の藤天龍の川上にて絡み合い殆(ほとん)ど山の如く繁茂し物凄かりき。
或時諏訪藩主天龍の螢遊覧の際、其藤を伐り払うべく命じたり。雖然(けれども)人々神慮を恐れ畏み誰伐るものもなかりしが、新屋敷村の嘉右衞門と云う大力無双傲慢(ごうまん)なるものあり。余に山役 三月藏米三升の役儀なり 二人の料を払えなば伐らんと云うに任せ、右役料を與(あた)え伐らしめたり。
同人後に発狂し力にまかせ荒れ狂い、衆人何れも恐怖せり。因て京都吉田家に乞い祈祷せしかば、其病少しく癒えぬ。或時其神札を頭に戴き家を飛び出し、間下耕地(ましたこうち)字(あざ)半ノ木と云う山腰にて突然倒れ、気抜け人事不弁(ふべん)となりぬ。是れ全く神罰なりと人々云い合えり。
又神札を其場に祭り祝殿と尊崇し、鎮目大明神と唱う 衆人此社を気違宮と云う。これは寛文年中(1661−1673)のことなり。現今氏子小口茂左衛門は即(すなわち)嘉右衛門の末なりとぞ。
よくある「祟った話」ですが、登場人物や地名が具体的すぎて(藤の絡み合いはともかく)実話とも思ってしまいます。そこで、それらを追って、鎮目大明神の鎮座地に迫ってみました。
長野県地名研究所『岡谷市字境図 』で字(あざ)[半ノ木]を探すと、鳥居平やまびこ公園の東北にありました。「山腰」の意「山の中腹と麓との間」には当てはまりますが…。
左図は、明治の文献である『系譜』に合わせて用意した、明治7年製作とある県立歴史館蔵『第十三大区小一区諏訪郡 岡谷村』(以下『岡谷村』)です。
左上(北西)にハンノ木があります。『岡谷市字境図 』と同じ場所なので、それを「半ノ木」として、「間下(ました)」と「新屋敷(あらやしき)」のラベルを貼ってみました。
「嘉右衞門は、なぜ山の奥に向かったのか」という謎がありますが、気が触れた人に常人が取る行動を当てはめても…。
「明治四十三年測図昭和六年要部修正測図び要部修正縮図」とある、大日本帝国陸地測量部の五万分の一地形図『諏訪』の一部です。
これには半ノ木までの道があります。『岡谷村』には半ノ木の先に溜池があるので、江戸時代でもそれを維持管理する道があったことは間違いありません。
『系譜』は「神札を頭に戴き」と書いているので、嘉右衞門が額に御札を鉢巻きで挟んだ姿で、新屋敷からこの道を駆け抜けたと想像してみました。
『小社神號記(写)』(以下『神号記』)を読む機会がありました。一通り目を通す中で「気狂宮」を見つけ、それが『系譜』に書かれた「気違宮」であることに気が付きました。しかし、判読できない字があります。許可を得て撮影したものを、自宅でじっくり読んでみました。
その気狂宮に、読みやすいようにテキスト化したものを並べました。ただし、「稲綱(いづな)」下のレイアウトから、小口村の高橋甚兵衛は「稲綱」に含まれるとしました。
それを頭に置いて最下段を読むと、気狂宮は新屋敷村の小口茂左エ門が祭っている神社とわかります。その当人は、『系譜』に出る「新屋敷村の嘉右衞門の末(子孫)である小口茂左衞門」と同名です。
次に『神号記』の奥書を確認すると、「武居伊織」の署名があります。『系譜』の冒頭で「社掌武居伊織氏言う」と書いていますから、著者の神長官・守矢實久が小萩祝・武居伊織から聞き出した「気狂宮」の詳細を書いたのが「・社掌…」で始まる冒頭の一文であることがわかりました。
ここで、気狂宮が「小尾口村(こおぐちむら)の神社」として書いてあり、しかも新屋敷村の小口茂左エ門が祀っていることに違和感を持ちました。『系譜』では、当時の呼称「間下村半ノ木」に祝殿を建てたと書いているからです。
改めて「間下邨(村)」分に目を通しますが、気狂宮は載っていません。『系譜』の最終年譜は文化12年ですから、小口茂左エ門の代では、半ノ木から小尾口村に遷して祀っていたとするしかありません。
伊藤ェ二著『小尾口村史輯2 津島神社境内の小社と石碑』の冒頭に、「小尾口村について若干説明しておかないと、理解しがたい面も出てくるので補足しておく」として
を書いていました。これで、『神号記』に載る小尾口村の神社に「新屋敷」が書いてある謎は消えました。また、同書で小尾口村の鎮守社「天王宮(現在の津島神社)」を確認すると、下壇には「小尾口村・新屋敷」が並記してありました。
こうなると、現地踏査をするしかありません。岡谷市小尾口の周辺を探すと、公民館の近くに津島神社があります。旧小尾口村の鎮守社ですから、気狂宮が境内社として現存している可能性があります。しかし、現地では、何も得られませんでした。
前出『津島神社境内の小社と石碑』を読み進めると、明治11年(1878)『氏神境内末社取調』があり、「鎮大明神 木祠 前1尺1寸 奥1尺7寸」を書いています。また、〔小社〕の[鎮大明神]では、「鎮大明神(鎮社)も魔王神と同じで、なかなか判然としない神である」で始まる一文があり、「この神も津島神社境内には残っていない」とまとめています。
〔小社の位置と合祀〕では、
と書いているので、昭和の終わり頃までは津島神社の境内に存在していたことになります。ただし、この内容では鎮大明神が気狂宮である確証は得られません。
ここで、『神号記』にある「文政の初め、社木を伐取り、秋葉山の南に小木を以て板宮を建てた」を振り返ってみました。
『系譜』では「寛文のこと」と書いているのに、ここでは「先年・文政」を挙げているのが引っかかりますが、「秋葉山」が特定できれば、気狂宮の鎮座地がわかるからです。しかし、『津島神社境内の小社と石碑』にある境内図や小尾口村の周辺には、秋葉山や秋葉神社はありません。
図書館に『新屋敷区誌』があるのを知っていたので、「秋葉山」を拾い出してみました。今でも「◯◯耕地」を使っていることに驚きましたが、その要約です。
Googleストリートビューで「斧磨沢」の周辺を探ると、岡谷工業高校第二グラウンドの北側に鳥居があります。それが秋葉神社なのかを確認するために現地に向かいました。
一部凍結している土段の参道を登り詰めると、この景観が現れました。鳥居と石祠は無銘ですが、御柱の銘板に「五耕地秋葉神社◯之御柱」が読め、目的とする神社と確定しました。これで、「秋葉山の南」が当てはまる「半ノ木」に鎮目明神があったことになりました。
冒頭の『岡谷字境図』は、経年変化で不鮮明になっています。ここでは『地理院地図Vector』の地形図にその字境を移植し、現地で見つけた神社を加えたものを用意しました。(秋葉山の左方にも字「半ノ木」がありますが、極少区画なので外しました)
秋葉山が特定できたので、「秋葉山の南」に相当する場所を赤の破線で囲ってみました。
相変わらずの大ざっぱな区域であることに変わりありませんが、その当時は、ここに小さな板宮(木の祠)を建てて祀ったと考えました。
当初から「俗に気狂宮と云所文政の…」の「所」をどう解釈するかと悩んでいましたが、「所 に 、」と読んでみたら、端(はな)から外していた「小口村の高橋甚兵衛」が再浮上しました。
というのも、気狂宮を小尾口村の神社として書いている『神号記』の最終履歴が文化12年(1815)ですから、半ノ木はすでに跡になっています。その変遷で「文政の初め(1818〜)に」ですから、高橋甚兵衛が「気違宮の名前だけが残っていた場所を木を伐採するなどして整備し、秋葉山南側の小木を使って木祠を建てた」と素直に意味が通ったからです。
それを本来の意味としましたが、新屋敷村の小口さんと小口村の当人との繋がりがわかりません。しかし、奇特な人として、ここに甚兵衛さんを登場させてみました。
「鎮座地は秋葉山の南」が消えるという展開になったので、結局は、鎮目明神・気狂宮の旧鎮座地は「字 半ノ木」で終わらせることになりました。
実は、津島神社にある境内社の一つがものすごく気になっています。『津島神社境内の小社と石碑』では「新(※新しい)小口マキ祝殿」と書いていますが、私の目では鎮大明神に見えてしまいます。別称が別称だけに写真を載せることは控えましたが、「境内の左奥に並んだ石祠の一つ」とだけ書いておきます。