以前『織田信長と明智光秀と法華寺』をアップした際に、『諏訪藩主手元絵図』に明智光秀公関連の地名が三箇所載っているのを紹介しました。
その時に、松の大樹二本に「森木」と添え書きがあるのを見つけ、これは神社の可能性が高いと見ました。『手元絵図』に載る独立樹は、小規模な神社として描いている場合があるからです。
この流れで『諏訪郡諸村並旧蹟年代記』に目を通すと、
一、塚原村
…立石北の方沢に明智光秀公陣場屋敷と云、今其辺裏道通明(智)屋敷跡拾八軒、今村之家裏に森之木と云名所有、
とあり、ここでは名所として書いている「森之木」がありました。
中世の神社事情がわかるという、諸神を勧請する『祝詞段』があります。ここに詳細不明の「守木」があるのを知っていましたから、改めて書き出してみました。
上原ノ郷ニ、チカト(千鹿頭)若宮・久須井十三所(葛井神社)・上下御社宮神・矢ヶ崎鎮守・守木・大歳(大年神社)・御サン所ノ明神(御座石神社)・粟澤鎮守、…
矢ヶ崎鎮守(現在の塚原鎮守神社)に続いての守木ですから、森木・森ノ木・守木(※『根元記』では「森木」)が何れも神社名で、中世にはすでに存在していたことがわかりました。
長らく鎮座地を見つけられずにいましたが、ここに来て「ちのスカイビューホテル」の敷地にあることがわかりました。
ヤマダ電機の北側から、道向こうとなる森ノ木社を撮ってみました。諸々の前景と背後のホテルでゴチャゴチャしていますが、立地を説明するにはこれがベストとしました。見方によっては、ホテルの守護神のようにも思えてしまいます。
上写真では右側になる、「松本日産」から覗き込んだ境内の核心部です。その間を横切る側溝の蓋が、『手元絵図』にある川でしょうか。
南向きとなる石祠に近づくと、何か様子が変です。
身舎の前面に神号「森木社」を彫った形式と説明がつきますが、のっぺらぼうが顔に「(私は)のっぺらぼう」と書いて現れたようなものですから、何かしっくりしません(※あくまで個人の感想です)。
側面に文字が確認できますが、彫りが浅いので読み取れません。基台の銘板を読むと、「志主 平成二十年度塚原区氏子総代」として五人の連署があります。この年の氏子総代5名が基台を寄進したと想像しでみました。
社頭の案内板を転載しました。
ヤマダデンキへはよく来るのですが、この場所に古社があったとはまったく気がつきませんでした。
国土交通省『国土画像情報』から、昭和51年撮影の航空写真をお借りしました。
まだ田圃に囲まれていた時代で、下(南)のうねった線が現在もそのままの形で残っている用水路とわかります。
気になって調べると、森ノ木社の周辺に「森ノ木」に関連した字(あざな)が計六箇所残っていました。それだけ森ノ木社の存在が大きかったということでしょう。
この書は平成2年の刊行です。現在の高規格道路はすでに開通していますが、周囲はまだ田畑であるのがわかります。左の斜めの小道が、ヤマダ電機と屋外駐車場を分断している旧道と、今理解できました。
冒頭に挙げた『手元絵図』ですが、左端に「山ノ神」があります。「上原境」に心当たりがあるので調べると、以前「こんな所に神社が」と参拝していました。
改めてその前に立つと、「塚原林野組合貸駐車場」の看板が…。山ノ神が林野組合に管理されていることに、何か感心してしまいました。