ちの町史刊行会『ちの町史』〔古代の集落〕からの抜粋です。
ここに出る「後・現在」が、後に出るキーワードとなります。
同書の口絵写真〔横内村〕を一部加工して転載しました。□内の「社宮神」が、今回取り上げた「横内の御社宮司社」です。
上部の並木状の林が「上川沖積台地の崖下(茅野断層)」に相当します。また、何れも現在の呼称ですが、川原のように描かれた「下蟹河原」が「湧水」で、下部の神社が「達屋酢蔵神社」となります。
絵図にもある道に沿って、縦長の社地が延びています。ただし、上蟹河原からの用水路は暗渠になっているので、当時の景観を偲ぶことはできません。
入口左右の石柱に「小川祝神・御社宮司社」と彫られているので、この地は初めてという方でも迷うこと無くその前に立つことができます。
玉垣・御柱・幟枠・金燈籠に加え宝庫も備えているので、小川姓の人々が現在も栄えていることが想像できます。
覆屋の中にある本殿ですが、『小川祝神のあゆみ』では「昭和54年の建造で、四賀桑原の宮大工北原佐吉作」と書いていました。
小川祝神のあゆみ刊行委員会『小川祝神のあゆみ』の巻頭にある[御社宮司社について]の一部です。
冒頭のキーワード「後・現在」と、この部分がよく理解できませんが、「達屋酢蔵神社と小川祝神の双方に(同一の)御社宮司社がある」ということでしょう。
同書では、寛政12年に村方と、明治5年には副戸長との間で争論が起きたと書いています。『諏訪藩主手元絵図』にも載る御社宮司社は特別な存在ですから、小川祝神とそれを取り巻く外部の間で(公か私かの)見解の相違が出たことは容易に想像できます。
ここに「昭和二十七年合併」とありますから、つい最近になってから両者の折り合いが付いたことになります。しかし、(名義上)と断っていますから、部外者の私はますます混乱し、あれこれと想像してしまいます。
達屋酢蔵神社境内にある御社宮司社です。両社とも、古来から本社に次ぐ御柱の規格が定められているので、摂社とも言える重要な境内社です。
冒頭の『ちの町史』に「その祠は後に達屋酢蔵神社境内に移され」とあるので、この石祠は小川祝神の本殿だったことがわかります。
その経緯は『小川祝神のあゆみ』には見られませんが、口絵写真に「大正3年の旧社殿」とある木祠が写っているので、それ以前に(新たに)木造の社を建てたのでしょう。