横内の「天白七五三社(てんぱくしめしゃ)」を調べると、宮地直一著『諏訪史 第二巻前編』〔諏訪地方の原始信仰〕にある
を引用しています。よく読むと「天白七五三社の由緒は、『修補諏訪氏系図続篇』に記載のもの」となるので、その諏訪氏系図を探すと、大正10年出版という古書故に、ネットで閲覧できる延川和彦著/飯田好太郎補『修補 諏訪氏系図 続編』にたどり着きました。
目的とした記述は〔神長官守矢家略系図〕にありましたが、ついでなので他の社家を読むと、〔同上同職(※宮社諏訪神社旧大祝政所両奉行)花岡家略系 (同上抄本)〕の冒頭部分に面白い記述がありました。
洩宅神之末裔と云、先代花岡邑(村)住、因而(よって)氏とす。祖先久遠にして不詳(花岡氏の事は上巻に掲ぐ見るべし)
補に云う,狩倉ノ里の由来に、守矢神の神族繁栄住居せしが湖水干潟するに従い平土に移れり、之を守矢の神族衆と云うと、蓋(けだ)し本氏又同族ならんとの説あり、
補に云う、守矢神を洩矢神と同神なりとの説あり、永明村一本湛えに守矢稲荷社と云うあり、当氏の祖神と同神なるか附して考に供う、
「旧諏訪神社上社の政所(まんどころ)職を務めた花岡氏は、洩矢神の子孫」と書いています。あくまで“系図の中の歴史”なので真偽を問うことはしませんが、「永明村一本湛(たた)えにある守矢稲荷社」に注目しました。記憶にある字(あざな)が反応したからです。
ところが、覚えがある場所に目を光らせると、…「一本松」でした。ここで記憶違いとわかったので捜索範囲を広げると、「一本椹(さわら)」があります。
考えてみると、「一本(+)湛え」とは変な字(あざな)です。「椹」が正しいのではないかと「茅野市 一本椹」で検索すると、茅野市教育委員会の埋蔵文化財調査概報『一本椹遺跡』があり、〔位置及び環境〕に以下の文がありました。
「一本椹」を[◯]とし、これも記憶にあった長野県『長野県町村誌』〔諏訪郡永明村〕に載る「守矢社」を読み直しました。
守矢社 雑社 …本村の卯の方にあり、祭神稲倉魂命、祭日之無、
当時は「永明村・四賀村(連合)戸長役場は永明村上原頼岳寺に置く」とありますから、その卯(東)の方に当たる神社が「一本椹の守矢稲荷社」とすべてが重なりました。
「一本椹」の字地(あざち)が狭いのでストリートビューで走ってみると、祠と御柱がアッサリと現れました。この縮尺では幹だけが写っている「一本椹」にも似た木があったのがその要因かもしれません。ただし、現地に立てば、徒労に終わったと書く羽目になる可能性があります。
「この機会に古墳の見学を」と登った永明山公園墓地は、桜が満開でした。公園内に移築保存された釜石古墳と一本椹古墳を見学してから、目的地へ下ります。(自宅に戻ってから、永明山古墳を見忘れ、この写真に守屋山が写ってたことに気が付きました)
民家の隣接地とわかっていたので背後の畑から近づくと、…隣接は敷地内です。「これはまずい」と一旦退却し、「これは正攻法を使うしかない」と正面に回ります。かなりためらったのですが、意を決してチャイムを押しました。
コロナ禍での闖入者とも言える私ですが、夫妻ともに快く応じてくれました。
案内されて鳥居の正面に立つと、額に「守矢社」が読め、ここが「塚原の矢崎氏の祝神である守矢社」と確定しました。
その前で、家人環視とあって気恥ずかしかったのですが、これも礼儀と深く拝礼をします。
一定の手順を踏んだので行動に移し、まずは一本椹の切株を基壇とした祠の写真を何枚か撮ります。
鳥居の柱に矢崎姓が彫られています。それに話を向けると、本家筋二人の名前で、当家は新屋(分家)としてこの地に家を建てたという経緯がわかりました。そんな事情で祭神の詳細はわからずに終りました。
今回が最後のチャンスとばかりに様々な質問をしたのですが、ネットで公開できるのは「ここまで」としました。
私の熱(意)が伝わったのか、額装された「一本椹」の写真を見せてくれました。
その時はカメラにコピーするのが精一杯でしたが、自宅でじっくり見ると、椹は常緑樹ですから、すでに枯れているのがわかります。伐採前に記念として残したのでしょう。
この写真では椹の大木が神木のように写っていますが、元々は墳丘上に生えたもので、その古墳を矢崎氏発祥の先祖として祀ったものが守矢社とも見えてきます。因みに、移築された「一本椹古墳」は、直近の永明山公園墓地取り付け道路の下に築造されていたものです。
祠の側面に銘があります。現地でも、兀と礻(しめすへん)から「元禄」と読めましたが、左は「吉日」としても、年と干支は不明となりました。
冒頭に挙げた「洩矢神・花岡氏(花岡村)・守矢神」ですが、繋がるものは何も無く、守矢稲荷社を参拝しただけに終わりました。ただし、「矢崎」氏が奉祭する「守矢」社ですから、ここの矢崎氏は花岡氏から分流したとも考えられます。祭神は、当初から稲荷神であったのか交代したのかは「久遠にして不詳」となりました。