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旧瀬沢村の御社宮司社 富士見町瀬沢

諏訪最南端のミシャグジ

御社宮神
諏訪史談会『復刻諏訪藩主手元絵図』〔瀬沢村〕(二頁を合成)

 『諏訪藩主手元絵図』〔瀬沢村 木戸口新田〕を眺めると、御社宮神があります。ミシャグジとしては諏訪最南端に当たるので、その参拝記を書く計画をたてました。しかし、瀬沢鎮守「諏訪神社」の北・甲州街道沿いとわかっても、(ストリートビューで走ってみましたが)具体的な情報が得られません。
 長らく放置してきましたが、『富士見町誌』を閲覧する機会があったので調べると、『瀬沢区誌』を引用して「明治初期に若宮八幡と共に、墓地上に移転した」と書いています。その数日後に諏訪神社を再拝してからその「墓地」を探したのですが、西照寺跡に古い墓石をまとめた一画はあっても、集落内には(なぜか)墓地がありません。コロナ禍とあって突撃聞き込みも憚(はばか)れ、再び先送りとなりました。

移転した御社宮神

 諏訪地域公共図書館情報ネットワーク『すわズラ〜』で検索すると、「瀬沢区誌」では応答しません。「瀬沢区」に替えると、瀬沢公民館編『郷土のあゆみ』が富士見町図書館にあることを表示しました。

 閉架の本ということで受付で申し込むと、当時の紙事情が知れる褐色に変色したガリ版刷りという冊子を手にすることができました。思わず奥付(おくずけ)を確認すると、昭和34年3月5日発行で170頁余の非売品でした。
 早速目次に目を通しますが、項目の多さから詳細に欠ける危惧を持ちました。しかし、以下の一文があって目的を十分に達することができました。

〇 八幡神社と御社宮司社並諏訪社内標
一、八幡神社 (略)

一、御社宮司社
御社宮司社は上の平より西久保へ這入る道側の東、小林明氏の田の辺(ほとり)大森林の中にありしが今は田に化し、八幡社と共に山之神森に移し上の平にて八幡と共に組(※隣組)の祭神とす。元の参道口は東の方に有りしと聞く。山の神の森に移した時期は不明なるも明治六年社寺整理令の下った時か。社地は字(あざ)坂本九三四二番、田一畝廿四歩の田なり。

一、諏訪社内標 (略)

瀬澤区家軒並図面 折込に、『瀬澤区家軒並図面 昭和二十七年現在』があります。早速「乙貝川」の橋附近に目をやると、目的とする「御社宮司跡」がありました。その周辺にに墓地を求めると、集落から離れた場所に「御社宮司」が書かれていました。ここまでわかると、後は、「現地にいつ行くか」ということになります。

御社宮司社参拝 '22.4.6

 『瀬澤区家軒並図面』では「血ヶ原古戦場」・現地では富士見町指定史跡「瀬沢合戦跡」を左に見て道なりに進むと、黒い石塔群が現れました。地図通りにその最上部に達すると、右方に、祠らしき屋根の一部が見えます。


御社宮司社space若宮八幡space山の神

 近づくと境内の側方という場所で、享保の銘がある灯籠を前に、覆屋に守られた木祠二棟とその間にある石祠が三棟という社地でした。

御社宮司社 『瀬澤区家軒並図面』では左端の祠が御社宮司社となります。しかし、覗き込んでもそれを表すものがありません。ここは編集者を信用するしかないので、その写真を載せました。
 本殿が朽ちかかっているのは、同族の巻(まき)ではなく組(隣組)の管理ということで営繕が曖昧となった結果でしょうか。「注連縄だけは掛かっているので細々ながらも守っていることがわかる」と、立ち寄り参拝者(部外者)が御託を並べても何にもなりませんが、江戸時代の絵図に書かれた「御社宮神」が、鎮座地は替わっても今目の前に確実にありました。

御社宮司社鳥居 帰りは、簡素な鳥居がなければその形状もわからない参道を下りました。降りてみれば、墓地の右手から小尾根を直登する道でした。


御社宮司社跡 国道上の畑から旧鎮座地辺りを撮ってみました。「今は田と化し」とありますから、当時は右手の山から派生した木々が茂っていたと思われます。
 左方の家並みが旧甲州街道です。行き交う人々が瀬沢の御社宮司社に目を留めて手を合わせていたのかは定かではありませんが、時を経た令和4年に、ネット上ですが、この御社宮司社の変遷を紹介することができました。

秋葉社と御鍬社

御鍬社・秋葉社 『瀬澤区家軒並図面』に「作場道」を挟んだ尾根に「秋葉神社と御鍬神社」が書かれています。完全に帰るモードでしたが、思い直して引き返し、参拝を済ませました。
 「昭和五十二年・明治四年」の銘があります。こちらは「瀬澤村」の建立なので、造りに差が出たということでしょう。