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鎮大明神(岡谷市の神社)

■ 転載した青焼き地図は、長野県地名研究所『岡谷市字境図 』の一部です。

 本稿は、先日アップした『神長守矢氏系譜と小社神號記(鎮大明神)』の「結」に相当しますが、諸事情により別稿としました。

地図記号「路傍祠」

 鎮大明神を探索する中で「御鍬様」を見かけましたが、一般の地図には載っていません。詳細の『字境図 』で探すと、神社の凡例鳥居ではありませんが、林道から続く二本の破線が現地で見た参道と同じなので、[L]が御鍬様と確定しました。

御鍬様 それで終わっていましたが、ふとしたことで、[L]が、『茅野市字名地図』に載る小神社の凡例と同じものであることに気が付きました。改めて注視すると、その上に何かの痕跡があります。等高線が不鮮明になっていることから、「何か」は[∧]の消えかかったものと確信しました。

路傍祠 改めて調べると歴(れっき)とした地図記号で、「路傍祠(ろぼうし)」の名称があります。「1/25000地図には使われないので、この歳まで知らなかった」と言い訳ができますが、大縮尺の地図には普通に載っていました。

田木 そこで、字「半ノ木」に、見落としていた路傍祠があるのではないかとハズキルーペを掛け、さらに目を皿のようにして探してみました。「鎮大明神は、まだ半ノ木にある」可能性に賭けたからです。結果は無駄骨に終わりましたが、周辺部に目を移すと…。

田木 まずは、中央自動車道の側道から、字名(あざな)「田木」に向かって延びている一本の破線に注目しました。次は、[田]の右下に剃り残したヒゲのようにある線です。それが、上書きした[田]の下に残った[L]の一部であることに気が付けば、破線は参道となり、「鎮大明神はここだ!!」と一気にテンションが上がります。

 続いて、字「高沢」が、『第十三大区小一区諏訪郡 岡谷村』に書かれた半ノ木から流れる川「タカサワ」と関連があると気が付きましたが、それは置いて、ストリートビューでその場所に立ってみました。確かに、それらしき道があります。

鎮大明神参拝 '23.3.28

鎮大明神
 参道

 この写真では斜めになっていますが、「その向こうに何かがある」道です。「半ノ木」から外れているので、未だ「何のことはない。よくある山ノ神だった」に落ち着く可能性が高いのですが、いずれにしても決着をつけるしかありません。

鎮大明神 すぐに御柱と横方向を向いた石祠二基が現れました。それを正面に見る場所に立つと、同系色に埋もれて判別しにくくなっていますが、右手の黒石が壇上へ上がる石段で、手前の立木二本が、注連縄が張ってあことから鳥居代わりとしていることがわかります。

鎮大明神 しかし、新宮と古宮が並んだ石祠には銘がなく、期待した御柱(おんばしら)にも神社名を記した木札はありません。「山にあるから、山ノ神だよ」との声も聞こえてきそうな現状ですが、左方に回り込むと、基壇に銘板があります。
 期待を持って読むと、「鎮大明神」が燦然と輝くようにして目に飛び込んで来ました。さらに、小口姓五人の連名がありますから、小口マキの祝神とわかります。
 これで「あの鎮大明神」が見つかったと小躍りしましたが、この状況証拠では、「神札を其場に祭り祝殿と尊崇した鎮大明神」と断定することはできません。祭祀者に確認を取ってから、初めてそう言えるからです。しかし、例え連絡先が判明しても、神社の創立由来を思えば「そっとしておいたほうが」と消極的になります。

再び「秋葉山の南…」

 字「半ノ木」を昭和23年9月撮影の空中写真で眺めると、広範囲に開墾されていることに驚かされます。

半ノ木
地理院『地図・空中写真閲覧サービス』〔岡谷(一部)〕

 今も一部が残る畦の形状を参考にして、鎮大明神の鎮座地を印してみました。『小社神號記(写)』に書かれた「秋葉山南小木以板宮(秋葉山の南に、小木をもって板宮を建てた)」もストンと腑に落ちる場所です。
 これを眺めて、参道と見たのは秋葉山へ登る道であったことに気が付きました。現在は「岡谷工業高校第二グラウンド」が広がっていますが、戦後間もない頃は畑中を通る道であったことがわかります。その先はハッキリしませんが、江戸時代でも入会山に通う道としてポピュラーな道だったことは間違いありません。

改めて「嘉右衛門さん」

 文献から拾った道を特定して現地に立った今、改めて「嘉右衛門さんは、新屋敷からここまで駆け抜けて力尽きたのか」と想像してみると、その真偽はともかく、感慨深いものを感じます。
 私には彼ほどの力と実行力はありませんが、その度胸には頷けるものがあります。それで、ここまで思いを入れてしまったことになりますが、私にとっての有終の美を飾る文言が浮かばないので、これで終えることにしました。