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旧高木村の(伝)御社宮司社「智児神社」 下諏訪町高木

杉の木神社

 旧高木村にある藤ノ木神社を探す中で、地図に「杉の木神社」を見つけました。私には初見の神社なので「下諏訪町 杉の木神社」で検索すると、なぜか表示しません。「高木」を加えるなどして検索を続けると、「なーんだ」となった、境内に「尾掛松」がある神社でした。

高木村の痺m木
諏訪史談会『復刻諏訪藩主手元絵図』

 『諏訪藩主手元絵図』の〔高木村〕に、痺m木があります。手書き文字入力で「瘁vが「杉」の異体字と知り、これが杉の木神社となりました。
 尾掛松はすでに実見していましたから、高木探索の帰りに「杉の木神社」として参拝しました。

智児神社(高木尾掛松)

 『下諏訪町誌 民俗編』〔下諏訪町の文化財〕に、[石造文化財]一覧があります。石祠の摘要を目で追うと、「智児神社 もと御社宮司社という」と書いています。所在地は「高木おかけ松境内」ですから、杉の木神社の境内で見かけ、写真も撮っていた石祠と直感しました。

改めて、杉の木神社と智児神社 '18.2.9

杉ノ木社(高木尾掛松)

 杉の木神社に諏訪湖を入れるアングルにしたら、上写真になりました。

尾掛松と杉ノ木社 左は、杉の木神社の祠と背後にある尾掛松の一部です。上写真とは180度逆になります。
 境内にある案内板は「尾掛松」の説明なので、これだけ密着していても、杉の木神社と尾掛松の相関はわかりません。杉と松では何か割り切れませんが、杉の木神社のご神木が尾掛松ということでしょうか。

 有名な「尾掛松の伝承」は(関係ないので)略とし、『下諏訪町誌 中巻』にある〔杉の木明神〕を転載しました。

杉の木明神 高木村の南方にあり、古代の「松之木湛(たたえ)」神事の地ともいい、享保の書上げには“鎮守杉之木大明神”と記して提出したという。宝暦二壬申(1752)にこの御神木が枯れたので、その代りに“ひむろ″という木を植えたという。
 社地内に周囲三尺ほどの榎の木があった。近所の畑が小和田村のもの(者)の耕作地であり、その巨木が邪魔になるというので無断で切りかけたところを名主元右工門が見つけ、詑状をとって役ゆずりにしたという享和元年(1801)六月の記録がある。『旧蹟年代記』(慶応ころの作か)に、

南の方苧(お)掛松、実はひむろという。百年以前に白つのとなり、小枝共に嘉永の頃に至って替ることなし。凡そ三かい程もこれあり。

とある。今にその姿を伝えているものである。

 ここでも双方の関係はハッキリしません。松木湛(枯)→杉木湛→杉の木神社という変遷を考えてみました。

(ここで)智児神社登場

 杉の木神社境内の奥、民家の石垣前ギリギリに流造(ながれづくり)の祠があります。石祠はこの一棟だけなので、『下諏訪町誌』の言う智児神社になります。

智児神社(ミシャグジ) 身舎側面に唯一あった銘「小松氏子中」から、現在は小松巻(まき)の氏神ということがわかります。しかし、『下諏訪町誌』の記述がすべてという現状に変わりないので、(伝)御社宮司社「智児神社」として終わらせることしかできません。
 それでも、「原初の松木湛の系譜を今に継ぐのが智児神社」とまとめてみました。

恵比須石

 冒頭の『諏訪藩主手元絵図』に「恵比ス石」があります。智児神社の内容が乏しいので、ここに紹介しました。

高木「恵比須石」 案内板『赤彦の里 散策案内』の下段に、「恵比寿岩跡 かつては諏訪湖中にあり、湖岸陸地化の後、上部を引き上げました」と写真付きで解説しています。
 高木探索の見納めとして、その恵比寿岩を眺めることにしました。見つからないので再び案内板で確認すると、石垣の上に見えていた庭石がそれでした。
 『諏訪藩主手元絵図』では富部村にも「ゑびす石」がありますが、高木村と同一のものでしょう。