旧高木村にある藤ノ木神社を探す中で、地図に「杉の木神社」を見つけました。私には初見の神社なので「下諏訪町 杉の木神社」で検索すると、なぜか表示しません。「高木」を加えるなどして検索を続けると、「なーんだ」となった、境内に「尾掛松」がある神社でした。
『諏訪藩主手元絵図』の〔高木村〕に、痺m木があります。手書き文字入力で「瘁vが「杉」の異体字と知り、これが杉の木神社となりました。
尾掛松はすでに実見していましたから、高木探索の帰りに「杉の木神社」として参拝しました。
『下諏訪町誌 民俗編』〔下諏訪町の文化財〕に、[石造文化財]一覧があります。石祠の摘要を目で追うと、「智児神社 もと御社宮司社という」と書いています。所在地は「高木おかけ松境内」ですから、杉の木神社の境内で見かけ、写真も撮っていた石祠と直感しました。
杉の木神社に諏訪湖を入れるアングルにしたら、上写真になりました。
左は、杉の木神社の祠と背後にある尾掛松の一部です。上写真とは180度逆になります。
境内にある案内板は「尾掛松」の説明なので、これだけ密着していても、杉の木神社と尾掛松の相関はわかりません。杉と松では何か割り切れませんが、杉の木神社のご神木が尾掛松ということでしょうか。
有名な「尾掛松の伝承」は(関係ないので)略とし、『下諏訪町誌 中巻』にある〔杉の木明神〕を転載しました。
南の方苧(お)掛松、実はひむろという。百年以前に白つのとなり、小枝共に嘉永の頃に至って替ることなし。凡そ三かい程もこれあり。
とある。今にその姿を伝えているものである。ここでも双方の関係はハッキリしません。松木湛(枯)→杉木湛→杉の木神社という変遷を考えてみました。
杉の木神社境内の奥、民家の石垣前ギリギリに流造(ながれづくり)の祠があります。石祠はこの一棟だけなので、『下諏訪町誌』の言う智児神社になります。
身舎側面に唯一あった銘「小松氏子中」から、現在は小松巻(まき)の氏神ということがわかります。しかし、『下諏訪町誌』の記述がすべてという現状に変わりないので、(伝)御社宮司社「智児神社」として終わらせることしかできません。
それでも、「原初の松木湛の系譜を今に継ぐのが智児神社」とまとめてみました。
冒頭の『諏訪藩主手元絵図』に「恵比ス石」があります。智児神社の内容が乏しいので、ここに紹介しました。
案内板『赤彦の里 散策案内』の下段に、「恵比寿岩跡 かつては諏訪湖中にあり、湖岸陸地化の後、上部を引き上げました」と写真付きで解説しています。
高木探索の見納めとして、その恵比寿岩を眺めることにしました。見つからないので再び案内板で確認すると、石垣の上に見えていた庭石がそれでした。
『諏訪藩主手元絵図』では富部村にも「ゑびす石」がありますが、高木村と同一のものでしょう。