『諏訪藩主手元絵図』では、〔田沢村〕に「御社宮神(みしゃぐじ)」が書かれています。これについての史・資料を見つけることはできませんが、近在に「社宮寺」がありました。御社宮神と関連がある寺院でしょうか。○部は以降に出る辻(交差点)なので、覚えておいてください。
田沢稲荷神社(福田稲荷神社)に参拝してから、どこにあるとも知れない御社宮神はひとまず置いて、社宮寺に向かいます。
『諏訪藩主手元絵図』では「寺」としか書いていませんが、奉納額に「稲荷山社宮寺」が確認できました。現況は御堂が一宇という廃寺ですが、「裏の墓地へ続く道が、絵図に載る道」と収穫を得ました。
社宮寺から汐(せぎ・用水路)に沿った道を引き返します。
現在は車道が東へ延びていますが、○部が『諏訪藩主手元絵図』と同じ交差点です。ところが、┳字路ですから直進するしかありません。それでもハウスが並ぶ左方の小尾根を注視し続けますが、構造改善で碁盤目に区切られた田圃に突き当たってしまいました。
「すでに土の下か」と諦めましたが、軽トラのガラス越しに「今、一服中」と見える顔を見ました。近づくと私と同年配です。強引な聞き込みを詫びながら話を伺うと、「ミシャグジ」は不明に終わりましたが、背後の小尾根に続く道が「古い道」と聞き出すことができました。
その道をたどると、古い墓地があるなど、この辺りはまだ昔のままという感じです。しかし、神祠などそれらしきものは見つからず、「現在は田沢稲荷神社の境内か」とするしかありませんでした。
国土地理院の空中写真を探すと、昔ながらの畦道がある昭和52年のものがあります。それに、車道(━)と汐(…)と思われる畦道を重ねると、冒頭の『諏訪藩主手元絵図』との位置関係がわかるようになりました。
これに前述の「古道」を当てはめると細い道が浮かんできますが、全容がはっきりしません。
次に『地理院地図Vector』の空中写真に、道路のみを重ねたものを用意すると、黄色の破線が『諏訪藩主手元絵図』の道と一致します。改めてその分岐をストリートビューで確認すると、現地では私道と見た細道でした。
「それが古道」とわかった周囲の地形を、(たまたま見つけた)隣接する神垣外遺跡の発掘調査書から引用しました。
調査書では遺跡名となった字(あざ)「神垣外」についての考証はありませんが、「御社宮神」を絡めると、うまく説明できます。
冒頭の『諏訪藩主手元絵図』を大きくしたものです。「御社宮神は小丘の尾根上」という場所ですから、空中写真でわかる小さな台地上のどこかにあったことがわかります。
現在は田沢稲荷社の境内社の一つと可能性が高いのですが、その詳細をたどるのは難しくなりました。
サイト『長野県立歴史館』に〔長野県明治初期の村絵図〕があるのを思い出しました。〔田沢村〕を眺めると鳥居の凡例があり、字(あざ)「御社宮司下」が読めます。
しかし、この絵図も道や水路からは鎮座地を明確に指摘できません。
これまでに挙げた史・資料から、鎮座地は小尾根の先端付近としました。
現地で馬頭観音を三基安置した塚状のものを「極めて珍しい」と受け止めましたから、それを「(推定)御社宮神跡」として、本稿を終わらせることにしました。