用意したのは、「上が西」という方位で描かれた『諏訪藩主手元絵図』の〔茅野村〕です。
この絵図では、現在の宮川御頭御社宮司社の周辺に、「此五ツ七御社宮神」として五社(□)を描いています。「それなら他の二社は」と探せば、西茅野と甲州街道沿い(|)にありました。
肝心の五社ですが、宮川御頭御社宮司社がその筆頭としても、他の四社に相当する神社が思い付きません。さっそく踏査としましたが、現地は、中央自動車道・バイパス・大型店舗・新しい住宅などで大きく変わっており、自力本願では見つけることができませんでした。そのため、私の比定として伊藤祝神・手塚次郎社・古字(あざ)「千護宮」の近くにある無銘の石祠・三輪社の境内から個人宅へ移転した祝神を挙げ、数を合わせてみました(…汗;)。
古部族研究会編『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』に、今井野菊さんが寄稿した『御社宮司社の踏査集成』があります。その中から、関係する御社宮司社を拾い出しました。
「マーキングした文言二ヶ所が(私には)意味不明」は別として、「四ツ塚古墳群」中の四ツ塚C古墳上にある「四ツ塚神社」を比定したと考えました。
一方で、『諏訪藩主手元絵図』を参照すると、泉松庵(廃寺)に並んで「七御社宮神」があります。
現地を踏査すると、四ツ塚古墳群からは離れていますが、参道だけが残る泉松庵跡の隣に「五味祝神」があるのを見つけました。
この社が、五味姓の一巻(まき)である祝神です。写っていませんが、左後方に宗湖寺があります。その関係としても、石塔に囲まれているのが何とも奇異に映りました。
古絵図『慶長姿千野村』で確認してみると、この辺りは「四ツ家」の地名で書かれています。つまり、ここは茅野村草分け四軒の地ということなので、彼らの祝神と墓地が混在しているのは不思議ではないことになります。それが、頼岳寺から移転してきた大寺「宗湖寺」の存在によって圧迫され、現在のような景観になったのでしょう。
前出の『御社宮司社の踏査集成』です。
平成29年の秋に、「鎮守北星大神祇」碑を探索しました。
その折に駐車場とした西茅野中央公園ですが、その隅にポツンとある石祠の存在を知りました。背後は新設の道路と碁盤目状の住宅分譲地ですから、縁の人々の意向で祠だけが残されたと想像しました。その時は「由緒知らずの祠」で終わっていましたが…。
実方位に近い『諏訪史蹟要項』の図版『慶長姿千野村』では、今で言う「西茅野」に、東村・中村・西村の旧村があります。中を取った「中村」ということですが、ここに茅野氏の「中村屋敷」があったとされています。千野廣著『千野(茅野)氏概説』では、「延長年間から安元元年頃まで約二百五十年」とありました。
ここで脚光を浴びることになったのが、西茅野中央公園の祠です。祭主も謂われもわかりませんが、この一画は、茅野市教育委員会『茅野市字名地図』では「中村」です。そのため、この祠が「七御社宮神の一社」である可能性が出てきました。
その後、『諏訪史蹟要項』の巻頭にあったので見逃していた〔宮川地区踏査図〕に、「御社宮司」と書いてあるのを見つけました。これで、七御社宮神と断定できました。
上図では、右端の「千ノ宮(ちのみや)」が既述の「千護宮跡」です。
この祠の場所は、字界図では御射山道を挟んで隣接する「大汐(おおせぎ)」になります。しかし、道向こうの左方が字「千護宮」ですから、七御社宮神に近いものとしてこの写真を挙げてみました。遠景は、中央自動車道西の宮線です。