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大天白社と天白七五三社 茅野市ちの横内 '21.4.18

 『ちの町史』の口絵写真『諏訪藩主手元絵図』〔横内村〕を眺めると、いつもお世話になっている諏訪史談会の復刻本に比べ、文字が鮮明であることに気が付きました。何が違うのかと〔口絵主要写真について〕を読めば、「復刻のため特別許可を受けて(原本を)撮影」とありました。

 改めて注視すると枠の内外が同色ですから、地色として薄褐色を塗ったのではなく、経年で紙色がセピア調に変化したものとわかります。そのことから、市販されている諏訪史談会本の枠外は紙(白)色なので、トリミングした枠内をそのままの色で印刷したことが(今)理解できました。
 そこで、原本を撮影したという〔横内村〕の左半分を、描かれた当時の色に再現することにしました。


ちの町史刊行会『ちの町史』口絵写真〔横内村〕

 白熱電灯下で黄色っぽくなった写真を昼光(蛍光灯)色に変えるレタッチに「カラーバランス補正」があります。枠外の変色した部分を本来の紙色「白」に指定すると、陽に焼けた新聞紙調だったものがこのようになりました。
 その中で、黄褐色に浮き出た部分が畑の色として塗ったことがわかります。この補正で他の色が影響を受けた可能性がありますが、これが当時の色に近いとしました。

 上図に、関係する「書き込み」を貼り付けてみました。これで、道を挟んで社人右近太夫屋敷社人左近太夫屋敷があるのが一目でわかるようになりました。


『ちの町史』口絵写真を加工

 隣の〔上原村〕では九頭井(葛井)神社の上に「九頭井太夫」が書かれていますから、この時代では、今で言う宮司が「太夫」と呼ばれていたことになります。
 さらに、位置関係から「右近・左近」と呼ばれる二人の(対になる)太夫が、御領姫神・立合明神(達屋・酢蔵神社)を共同または個々に奉祀していたと考えることができます。


大天白社(だいてんぱくしゃ)

大天白社 写真は、絵図には書かれていませんが、「社人左近太夫屋敷」に対応する矢嶋氏の祝神「大天伯社」です。
 諏訪史談会『諏訪史蹟要項六 ちの町篇』の〔一、達屋酢蔵神社〕の項に、「伍龍女宮大明神」宛の文書があります。

御柱出之事
神長官の口上ニ而東嶽御小屋山椹木而一丈八尺四本小宮三十二本出シ申候、脇々より少構無御座候、
為後日(ごじつのため※後日の証拠として)仍如件、
天正十二申申(1584)十月
 横内村 矢島左近

 内容はともかく、「矢島左近」の名が見えるので転載しました。ここでは、伍龍女宮(酢蔵)神社の神官であったことが窺われます。

 以下は、「大天白社」境内にある『顕彰記念碑』の一部です。

 天白社は矢嶋氏一族の祖神に侍(はべら)せ、天白神・池生神・白鳥神・牛頭天王を合祀する祝神である。

(中略)

 更に、蟹河原長者を祖とし大天白社一族の総本家として郷土の産土神達屋酢蔵神社神官の重職を奉仕、(後略)

大天白社 ここで「“大”天白・“大”矢嶋」と書いているのは、近接して天白社が二社あるので(自社の上位を謳うために)差別化を図ったということでしょう。しかし、以下に出るように、ここは二つの社家が二社それぞれに仕えていたとするのが自然と思います。


天白七五三社(てんぱくしめしゃ)

■ 出典によって字句の揺らぎがあります。誤字脱字ではありません。

天白七五三社 こちらも絵図に見当たりませんが、「下蟹河原」にあり「社人右近太夫屋敷」に対応する「天白七五三社」です。身舎に「天白七五三社」と彫られているので間違いありません。こちらも“大”天白に対抗して天白“七五三”としたのでしょう。

天白七五三社 前出『諏訪史蹟要項』〔一、大天白志めの権現社…矢島左大夫〕の項には、小文字の「天白志め権現社…矢崎右京大夫」が併記してあります。これで、社人右近太夫は「矢崎氏」とわかりました。
 その本文は諏訪郡史第二巻(※諏訪史第二巻前編)を引用したものですが、その対象は、「大」が抜けているので「天白七五三社」となります。ここでは、引用の原典である延川和彦著/飯田好太郎補『修補 諏訪氏系図 続編』から、〔信濃国宮社諏訪神社神長官守矢家畧系図(官幣大社諏訪神社所蔵本抄出)〕を載せました。

守矢神

諏訪郡守屋山上に鎮座、 (中略)
又云う、永明村天白七五三社由緒に、字(あざ)宮渡祭神矢塚男命此地に穴居す、健御名方命此国に到りし時洩矢神と弓矢を以て戦う、矢塚男命其矢に中(あた)りて死せんとし、健御名方命に云う、我は大神に随うべし、一女あり献(たてまつ)らんと言い終て死すとの口伝あり(下畧)云々とあり、矢塚男命洩矢神なるか或は従神か、

 “系図に挿入した口伝”なので厳密に読むことに異論が出るかもしれませんが、様々な解釈ができます。一般には「洩矢神と連合して戦った矢塚男命」として引用されますが、「(健御名方命の配下である)洩矢神と矢塚男命が戦った」とも読めます。
 それが文末の「矢塚男命=洩矢神・矢塚男命は洩矢神の部下か」という文言に表れています。この辺りが、「健御名方命は守矢(洩矢)神と共に諏訪に来た」説の根拠かもしれません。

蟹河原長者の系譜

 私が知る史資料ではこれ以上進めることはできませんが、まとめ(オマケ)として小咄を附記しました。


ちの町史刊行会『ちの町史』口絵写真〔横内村〕(二頁を合成)

 断層崖から、うとう坂を挟んで二箇所の清水が湧き出ています。その水利権を持っていたのが蟹河原長者「矢塚男命」と考えると、「その子孫二人が上蟹河原と下蟹河原に分割して管理し、それが右近・左近、さらに(今で言う)達屋神社・酢蔵神社へと継承された」とうまく繋がります。両氏とも姓に「矢」を用いているので、思い付きの話であっても、我ながらつい頷いてしまいます。