このサイトでは「諏訪七木巡り紀行」を載せていますが、いずれも「推定地」を訪ねたものです。その多くは江戸時代のもので、中世の文献に見える「七木」とは異なっています。そこで、誤解を与えないように、「諏訪七木とは」をメニューに加えました。
諏訪大社関連の本を読むと、中世の成立とされる『諏方上社物忌令』の「七木(ひちぼく)之事」を挙げ、「サクラ・真弓・峯・ヒクサ・トチノ木・柳・(神殿)松木」を「諏訪七木」としています。ところが、「七木」を謳っているのにも関わらず「山の峯」が含まれています。また、「ヒクサ」に当たる木が特定されていないなど、まだ解明されていないことが多くあります。
諏訪「七木」は、「七福神」や「七不思議」と同類のグループ分けです。大した意味はないとしていましたが、スギやケヤキなどの主要木が外れているのを考えると、やはり「何かある」と思ってしまいます。この七種のグループ分けの意味が解明されれば、諏訪神社の研究が一気に進む、…ことは無いと思いますが、調べてみる価値はありそうです。
中世では、大祝の代理である神使(おこう)は、二人三組に別れて「廻湛(まわりたたえ)」という神事を各地で行いました。
その対象の一つである「諏訪七木」でも、「此木其の本にては皆々神事有」とあるように、湛木の周りで神事が行われました。この神事を行う専属の神主(こうぬし)や費用を賄う神田もありましたが、その具体的な内容は伝わっていません。
本では、「湛の場所にある木や石に神を降ろし、鉾(ほこ)に鉄鐸(てったく)をつけてふり鳴らし神に豊作を祈願する」と具体的に説明しています。ところが、「湛」そのものの解釈は研究者によってまちまちで定説がありません。私も「湛える」を辞書で引いてみましたが、一般的な「水を湛える・笑みを湛える」などの用例しかありません。当て字かも知れない字を、さらに現代の辞書で追っても意味がありませんが…。
最近、堀江三五郎著『諏訪湖氾濫三百年史』読む中で、天竜川畔に造られた「湛(たたえ)」を知りました。その説明はありませんが、総合すると「明治期に盛んになった製糸工場の動力用に水車が使われた。その水車のところへ効率よく導水(集水)するために設けられた堰が水車湛」となります。
それを知ってからは、江戸時代の治水関係の文献にも同様な「湛」が多く見られることに気が付きました。ネットで検索すると、諏訪独自の名称ではないようで、全国的に使われていることがわかります。
中世の「湛」が江戸時代に一般的に使われた「湛」と同意語なのかはわかりませんが、ミシャグジが迷うことなく降りられるように設置したのが「湛の木」と考えることができます。大木で、しかも山野で独立した木が選ばれたのは間違いありません。
『画詞』には「峯湛」以外の「諏訪七木」は出てきません。その稀少とも言える一文を以下に紹介します。まずは、初午の日に神使二人が外県に向けて出発します。
酉の日には、いわゆる「酉の祭(現在の御頭祭)」を行い、二人二組の神使がそれぞれ小県・内県に向かいます。
七木の名はありませんが、「廻神と…」が「七木の下で行われた廻湛(まわりたたえ)」とわかります。その神事は諏訪神社の衰退とともに巡回範囲が縮小され、江戸時代に入ると、廻湛を伴わない「大御立座神事(御頭祭)」が行われるだけとなりました。廻湛が廃絶したことによって、「諏訪七木」が自然消滅の道をたどったのは間違いありません。
「湛えの神事」が盛んに行われた中世の文献には、「前宮のトチ・松」や「上桑原(諏訪市四賀付近)のひくさ・松」など、定説や推定地に見られない場所に「湛木」が登場します。このため、「長期に渡って限定された七ヶ所の七つの木ではない」ことがわかります。また、「七種類の一つを用いれば、湛木はどこに設定してもよい」という考え方も浮上してきます。
木には寿命がありますから、枯れれば別の木や場所に移ったり、実態が無くなっても従来通りの名前で言い伝えて来たことは考えられます。古文献にある「○○、実は△△」からもそれが伺えます。
時代と共に「廻湛」が廃れ、最後に神事が行われた湛木が「枯れたという伝承」として残っているのが江戸時代後期です。昭和・平成からは遙かな昔のことですから、切り株でさえも残っておらず場所も特定できません。ましてや、「初代諏訪七木は、神使の巡回コースにあった」という説はあっても、どこにあったのかなどは推定ですらできません。
諏訪の歴史や諏訪神社に興味を持つ方なら魅力的な「神使が廻った七木巡りツアー」ですが、現状は「江戸時代の諏訪七木伝承地巡り」となっています。このサイトでは、文献から拾える諏訪七木の複数の伝承地・推定地を「紀行文」として紹介していますが、峯湛以外は「ここにあった、と伝えられている」という「過去形の伝承地」になっています。