「十三所」などと限定された事物に興味を惹かれる私は、平成19年の年頭に当たって、「諏訪七木」巡りをしようと計画を立てました。
手始めに、御柱祭関連の神事があった七社明神社で見た「檜湛木」の石柱を、暮れの大売り出しで買ったカメラで「最新の映像」として撮り直すことにしました。
二年半ぶりとなる七社明神社の境内は、霜柱が落ち葉を押し上げていました。日が当たり一部が溶けたぬかるみを避けながら拝殿の前に立ちます。
新年の挨拶を兼ねた拝礼を済ましてからその場所を見ると、何と、記憶にある古色が乗った石の代わりに真新しい標柱が建っていました。名称も、覚えていた「檜」から「干草」に変わっています。「どうなっているの、管理は誰」と一回りすると、横に「神之原区」と彫られています。史跡とありますが、茅野市教育委員会は関与していないので「神之原区認定」ということでしょうか。
左は、HDから引っ張り出した平成16年3月の写真です。2年半の間に損傷したとは考えにくいので、「干草」と改称するために新調したことがうかがえます。
手元にある本の一つは「干草=檜(ではないか)」と解説しています。「干」と同じ読みの「檜(ひ)の木」を担ぎ出したのは歴然ですが、「干草」を別称とする木が“見当たらない”ので、こじつけと反論することはできません。
江戸時代の書物『諏訪郡諸村並旧蹟年代記』に〔神之原村〕の項があり、ここに「檜」湛木が書かれています。
現在の神之原区は、旧神之原村です。その鎮守が七社明神社ですから、初めはこの既述を根拠にして「檜湛木跡」の標柱を建てたのでしょう。その後に、“諸般の事情”で「干草に改訂するに至った」とその経緯を想像してみました。
左図は、諏訪史談会編『復刻 諏訪藩主手元絵図』〔神原村 荒神新田〕の一部です。ここに大木十二間とある巨木(◯)が描いてあります。
これに関連して、諏訪史談会編『諏訪史蹟要項 茅野町玉川篇』〔神之原・荒神〕から、「桧湛木」の一部を転載しました。
『諏訪藩主手元絵図』は、寛政より前の時代です。この時代では七社明神社の境内に、湛木かは断定できぬまでも樹高約22mの大木がそびえ立っていたと思われます。
永禄八年『諏訪上下宮祭祀再興次第(信玄十一軸)』の中に『湛神事退転之所令再興次第』があります。
一 同日(三月酉日)、上桑原之ひくさ湛、神田五段、在家壱間、
一 上桑原の松の木湛、神田五段、、在家壱間、
いずれも抜粋ですが、ここでは上桑原に「ひくさ・松」が見られます。上桑原は現在の諏訪市「四賀」附近ですから、その時代その時の事情で「湛木の移動があった」ことが考えられます。それより、「同名の湛木が各地にあった」とした方が自然かもしれません。
「干草」を、武井正弘著『年内神事次第旧記』の影印(原書の写真)で見ると、漢字では「〒草」仮名では「ヒクサ」と書いてあります。「亍(ちょく・たたずむ)」より「〒」に近いので郵便記号を代用しましたが、これが「癖字」なのか「当て字」なのかはわかりません。