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手長神社・足長神社と先宮神社・荻宮社 Ver '18.6.21

「手長神社・足長神社」とありますが、“一般的な内容”ではありません。
 以下に出る参照文献は、断りがない限り、諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』に収録されている文書です。

 長野県の諏訪には、全国的にも珍しい社名と言える手長神社と足長神社が鎮座しています。祭神は「手摩乳命(てなづちのみこと)と足摩乳命(あしなづちのみこと)」です。その一方で、同地にある先宮神社と荻宮は、古文献では「手長大明神と足長大明神」を祭神としています。
 『記紀』の神々と諏訪古来の神々は別のものです。時代の変遷で祭神が替わることはよくありますが、書籍やネット上でそれらの神々を同一の舞台に上げて論じているのを見ると、やはり違和感を感じます。

 そこで、古今の文献から関係するものを拾い集め、系統立てをしてみました。

現在の状況

社号と祭神

 まずは、標題の四社に祭神と鎮座地を加えました。いずれも諏訪大社社務所刊『諏訪大社復興記』(1963)の表記です。断っておきますが、この書に出る名称や呼称は、あくまで諏訪大社から見たものとなります。

手長神社/足長神社
手長神社足長神社
【手長神社】祭神・手摩乳命(諏訪市上諏訪字茶臼山鎮座)
【足長神社】祭神・足摩乳命(諏訪市四賀字足長山鎮座)
先宮神社/荻宮社
先宮神社荻宮社
【先宮神社】祭神・高光姫命(諏訪市上諏訪字新井鎮座)
【荻 宮 社】祭神・大歳神(諏訪市四賀字中組鎮座)

諏訪大社との関係

手長神社・足長神社─独立せる境外摂社
先宮神社・荻宮社──境外摂社・境外末社

 以上が、諏訪大社の“公式”「社名と祭神」です。

古における四社の成立由来

 ここから『諏訪大社復興記』を離れ、諏訪神社上社との関係を簡単にまとめてみました。つまり、現代の関係ではなく、中世から江戸時代までの繋がりということです。

手長神社・足長神社─下桑原・上桑原郷の鎮守社
先宮神社・荻宮社──諏訪神社上社「三十九所」の神社

 言わば「民社」と「官社」のようなものです。成立由来が異なるので、先宮神社と荻宮社は諏訪神社上社の管理(支配)下となります。

鷺宮(先宮神社)と荻宮は「三十九所」の神社

先宮神社の古称(別称)が「鷺宮」
摂末社遙拝所「掲額」
荻宮明神space鷺宮明神space小坂鎮守

 鷺宮はともかく、荻宮は一般には知られていません。そこで、諏訪大社上社本宮にある「三十九所」遙拝所から、「小坂鎮守・鷺宮明神・荻宮明神」の神号が並んだ社額を載せました。
 このように、石祠が一棟という荻宮ですが、序列では鷺宮と同格になります。当然ながら、手長神社と足長神社は鎮守社なので、諏訪神社上社の摂社末社「三十九社」には含まれていません。

古文献に見える「手長神社・足長神社と先宮神社・荻宮社」

 ここから、“核心部”に入ります。

 江戸時代以前の文献なので、諏訪大社は「諏訪神社」の表記になります。「鎮守社」は、「小坂鎮守神社」に倣って、産土社ではなく鎮守社としました。

「下十三所名帳」 『神長本諏方上社物忌令之事』(1238)では「明神名」で書かれ、「大威徳」など本地仏も併記しています。「鷺宮」は先宮神社の古名の一つですから、ここでは「鷺宮明神−先宮神社・荻宮明神−荻宮社」となります。

鷺宮明神 大威徳・手長
荻宮明神 文殊・足長
下馬明神 馬頭・高部

 ※として挙げた下馬明神は現在の「下馬社」で、茅野市「高部」鎮座です。「中十三所名帳」にも「若宮 阿弥陀・神宮寺」がありますから、白くマーキングした箇所は鎮座地であることがわかります。地名由来として「手長山と足長山」を当てはめると

「先宮神社は手長山・荻宮社は足長山」に鎮座

となります。

『上中下十三所造営』 次は、標題の「手長神社・足長神社と先宮神社・荻宮社」を書くきっかけとなった「守矢家諸記録類」の一部です。この書では、祭神の“特徴”と式年造営を担当する郷が附記してあります。

鷺宮 大威徳 手長大明神
此御神者(は)七日路遠出御給也(7日道の遠くへ手がでる)
御造営(※式年造営)下桑原之役

荻宮 文殊 足長大明神
彼御神者(は)七日路一仁行給也(7日の道を一足に行く)
御造営取上桑原田別銭奉造之

 ここでは「手長・足長」が「大明神」になっているので、「神社名+明神」と「鎮座地+明神」の二通りが使われていることがわかります。自説に合わせて「足長山・手長山」を由来にした祭神名と考え、

「先宮神社─祭神・手長明神・荻宮社─祭神・足長明神」

としました。祭神の説明も「手長・足長」そのものですから、この論理に無理はありません。この文書は、6年毎の「神社の建て替えは桑原郷の役」という諏訪神社上社の『造営帳』です。

『祝詞段』 「下十三所名帳」と同時代(1238)の記録ですが、湯神楽などで諸神を“紹介”する祝詞集なので当時の主要な神(社)が登場します。関連するものを抜粋し、「私が当てはめた」神社を右の〔 〕に挙げました。「佐久新海」は「先宮神社」の別称です。

大和には佐久新海─〔先宮神社〕
下桑原鎮守────〔手長神社〕
上桑原に足長明神─〔荻宮社〕

 ここでは「下桑原鎮守」に注目しました。「鎮守社」という表記なので現在の「手長神社」を指しているのは間違いありません。次の「上桑原」ですが、これには「鎮守」を付記していないので、まだ「荻宮社・祭神足長明神」として踏み止まっていることがわかります。ただし、『祝詞段』は「口に出して諸神を勧請する祝詞」ですから、語呂や調子が合うように省略・改変したことが考えられるので「厳密な解釈」は無理かもしれません。

『諏方大明神画詞』(1356) 〔御渡〕の段に「手長ありや(はいるか)」が出てきます。諏訪明神の御神渡りを見学しようとしたお坊さんが「手長明神に、行程7日のサナギ社(遠州)へつまみ出された」という話ですから、『上中下十三所造営』の「七日路出御手給」と一致します。そのため、「『画詞』の手長」は「鎮守社である手長神社の手長」ではなく、諏訪明神配下の「先宮神社の手長明神」ということになります。

『諏訪神社縁起』 下野国日光輪王寺蔵『諏訪神社縁起上下巻』から〔四柱之大明神事〕の段です。編纂年が不明なので、取りあえずここに入れました。

一 佐久龍海※1小坂之大明神之御事
(二)神は御渡(※御神渡り)之時必ず原始※2也、此龍海大明神は諏訪大明神之御乳母也、小坂鎮守貳神也、

※1※2後述

 「佐久新海大明神は、建御名方命の“乳母”」という表現から、先宮神社の祭神を『記紀』の「手摩乳命」と考えていることがわかります。
 次は、「上社大祝家文書」から年月日不詳の『古記断簡』の一枚です。同じ内容なので、『縁起』を書き写したものと思われます。

一、佐久新海※1小坂大明神事
新海大明神諏訪大明神めのと(乳母)と申也、小坂鎮守神御渡の時祕より※2給也、

 『縁起』を読んだ大祝が、「手長明神を手摩乳命に見立てている。これは面白い」と書き留めたのでしょうか。

※1大祝家文書から「新海」の誤字と思われる。
※2両書から、「必ず寄り給」が正でしょうか。
“新説”「先宮神社の参道に橋を架けない理由」

橋がない神社「先宮神社」 伝承にある「封じ込め」がよく言われていますが、祭神の手長明神は「人間が歩いて一週間かかる距離まで手が届く」ので、座ったままですべての用が足せます。これなら、わざわざ橋を架ける必要はないでしょう。


『武田勝頼造営覚書』 「諏訪子爵家文書」を見つけました。天正七年(1579)の文書で、前年が御柱年になります。「年を越してもまだ式年造営が済まないから、3月までに建て替えろ」という内容です。

十月以前出来
一、大宮御宝殿 小田切勘四郎
(中略)
三月
一、御作田御宝殿 武居條御印判衆
一、足長之大明神御宝殿 上桑原之郷御印判衆
一、手長之大明神御宝殿 下桑原之郷御印判衆
一、野焼大明神御宝殿 真志野之郷御印判衆
(中略)
右如書立之日限厳重可致造立…
巳卯 二月十六日 今福市左衛門尉 奉之

 内容は諏訪神社上社の式年造営ですから、ここでの足長・手長大明神は、「荻宮社・先宮神社」となります。

『社例記』 江戸時代の文書になります。解題に「延宝七年(1679)幕府よりの命により書き上げたる物之控えにして」とある『社例記』では、縁起から始まり「本社・前宮・退転・神宝・(後略)」の項目を並べ、それぞれの詳細を書き上げています。その一つである「摂末社」の中から、関係するものだけを転載しました。

(前略)・八劔宮・小坂鎮守・手長明神・脚長明神・酒室社・(中略)・新海宮・(後略)

 ここでも、八劔宮から脚長明神までの順番は「下十三所」の「八劔・小坂鎮守・鷺宮・荻宮」と同じです。そのため、諏訪神社上社では、江戸時代でも「手長−鷺宮・足長−荻宮」と考えていたことになります。ところが、これでは(鷺宮の別称とされる)新海宮が宙に浮いてしまいます。しかし、『先宮神社誌』に書いてある「先宮には、鷺宮と新海社の二社があった可能性がある」を当てると“回避”できます。

『諏訪忠晴立願状案』 「立願之覚」とある、貞享4年(1687)の文書です。藩主忠晴が大阪城の警備に赴く際に、道中の無事を祈って願を掛けた文書でしょうか。前出の『社例記』の内容とはかけ離れた「諏訪神社」の実態が読み取れます。この年では、宝殿は再建したものの未だ神社としての体裁は整っておらず、摂社末社も荒廃したままであったことが窺えます。

一、上諏方 何よりも建立

一、下諏方 同断(※同じ)

一、八劔 同断
右の通り六月四日社参の節、立願掛け候間、(後略)

一、手長 同断

一、鷺宮 同断
今度大阪御加番怠無く相勤め(後略)

 諏訪神社上社と下社は別として、八劔神社と手長神社は「高島城の守護として」再建を急いでいると理解できます。しかし、この“趣旨”では、その次に挙げた「鷺宮」の位置付けがわかりません。あくまで「案」なので、省略した部分があったのかもしれません。
 ここに「鷺宮」が出る文書として挙げましたが、むしろ、「諏訪神社の拝幣殿が再建された時期」を知る文書になるかもしれません。

『信濃國昔姿』 “公文書”ではありませんが、乾水坊素雪が文政2年(1819)に書いた本から該当する部分を拾い出しました。「十三所」の紹介なので、各神社が中世の文献と同じ順になっています。江戸時代の文献では、「荻宮」の名は“稀少”になっているので、挙げてみました。

 下十三所
一、八劔宮 小和田村  一、小坂神社 小坂村に有
一、鷺 宮 大和村   一、荻 宮 上桑原村に有

 明治維新まであと50年余りという時代ですから、現在見る各神社の社地と社殿の規模をそのまま当てはめてもよさそうです。

『諏訪郡諸村並旧蹟年代記』 「慶應二年」の記述からその頃にまとめられた書物とわかりますが、著者名とともに詳細はわかっていません。ここに「一、文政七年戌申年十月小宮三社共に上桑原村御林より出る、…」とある「御柱引き」が載っています。何れも「二・三・四ノ御柱」は略としました。

 八剱社御柱引
一、一ノ御柱 湯小路・新小路・島崎様方御家来衆
 足長社御柱引
一、一ノ御柱 普門寺村・武津・細久保
 手長社御柱引き
一、一ノ御柱 岡村・両澤隔番引

 あと2年で明治維新という時代です。「小宮」という書き方なので、「足長社・手長社」は、現在一般的に語られている「手長神社(手摩乳命)と足長神社(足摩乳命)」を指していることがわかります。

『上桑原村戸籍図面』
足長宮と荻宮 足長神社誌編集委員会『足長神社誌』の折込に、明治4年(1871)5月(上桑原文書 上桑原山林組合蔵)と説明がある口絵がありました。
 右の「足長宮(足長神社)」に比べ祠が一つだけという神社ですが、荻を以て屋根を葺いたと伝わる荻宮が描かれています。明治初頭の作ですが、絵図に「荻宮」と明記してあるのはこの一枚だけかもしれません。

「鎮守神社と諏訪神社」

 以上、目に付いた文献はすべて取上げましたが、図書館で閲覧できる資料だけでは内容が偏るのは否めません。それでも、その中から読み取れるのが、冒頭にも書いた以下の“区分け”です。

手長神社・足長神社─旧下桑原郷と旧上桑原郷の鎮守社
先宮神社・荻宮社──諏訪大社上社の摂社・末社
手長神社─手摩乳命(下桑原郷が『記紀』から迎えた神)
足長神社─足摩乳命(上桑原郷が『記紀』から迎えた神)
先宮神社─手長明神(諏訪神社上社成立期からの神)
荻宮社──足長明神(諏訪神社上社成立期からの神)

 このように、諏訪神社上社関係の文献に出る「手長明神・足長明神」は、あくまで「鷺宮と荻宮」です。そのため、鎮守社の「手長神社・足長神社」とその祭神「手摩乳命・足摩乳命」を同列に置くと、誤解の元になります。

 言い替えると、諏訪の神社や祭神に、「諏訪の歴史」を熟知しないまま(まじめに)『記紀』の記述(故事)を当てはめるのは見当違いということになります。