長野県の諏訪には、全国的にも珍しい社名と言える手長神社と足長神社が鎮座しています。祭神は「手摩乳命(てなづちのみこと)と足摩乳命(あしなづちのみこと)」です。その一方で、同地にある先宮神社と荻宮は、古文献では「手長大明神と足長大明神」を祭神としています。
『記紀』の神々と諏訪古来の神々は別のものです。時代の変遷で祭神が替わることはよくありますが、書籍やネット上でそれらの神々を同一の舞台に上げて論じているのを見ると、やはり違和感を感じます。
そこで、古今の文献から関係するものを拾い集め、系統立てをしてみました。
まずは、標題の四社に祭神と鎮座地を加えました。いずれも諏訪大社社務所刊『諏訪大社復興記』(1963)の表記です。断っておきますが、この書に出る名称や呼称は、あくまで諏訪大社から見たものとなります。
以上が、諏訪大社の“公式”「社名と祭神」です。
ここから『諏訪大社復興記』を離れ、諏訪神社上社との関係を簡単にまとめてみました。つまり、現代の関係ではなく、中世から江戸時代までの繋がりということです。
言わば「民社」と「官社」のようなものです。成立由来が異なるので、先宮神社と荻宮社は諏訪神社上社の管理(支配)下となります。
鷺宮(先宮神社)※と荻宮は「三十九所」の神社
鷺宮はともかく、荻宮は一般には知られていません。そこで、諏訪大社上社本宮にある「三十九所」遙拝所から、「小坂鎮守・鷺宮明神・荻宮明神」の神号が並んだ社額を載せました。
このように、石祠が一棟という荻宮ですが、序列では鷺宮と同格になります。当然ながら、手長神社と足長神社は鎮守社なので、諏訪神社上社の摂社末社「三十九社」には含まれていません。
ここから、“核心部”に入ります。
「下十三所名帳」 『神長本諏方上社物忌令之事』(1238)では「明神名」で書かれ、「大威徳」など本地仏も併記しています。「鷺宮」は先宮神社の古名の一つですから、ここでは「鷺宮明神−先宮神社・荻宮明神−荻宮社」となります。
※として挙げた下馬明神は現在の「下馬社」で、茅野市「高部」鎮座です。「中十三所名帳」にも「若宮 阿弥陀・神宮寺」がありますから、白くマーキングした箇所は鎮座地であることがわかります。地名由来として「手長山と足長山」を当てはめると
となります。
『上中下十三所造営』 次は、標題の「手長神社・足長神社と先宮神社・荻宮社」を書くきっかけとなった「守矢家諸記録類」の一部です。この書では、祭神の“特徴”と式年造営を担当する郷が附記してあります。
鷺宮 大威徳 手長大明神
此御神者(は)七日路遠江出御手給也(7日道の遠くへ手がでる)
御造営(※式年造営)下桑原之役
荻宮 文殊 足長大明神
彼御神者(は)七日路一足仁行給也(7日の道を一足に行く)
御造営取上桑原田別銭奉造之
ここでは「手長・足長」が「大明神」になっているので、「神社名+明神」と「鎮座地+明神」の二通りが使われていることがわかります。自説に合わせて「足長山・手長山」を由来にした祭神名と考え、
としました。祭神の説明も「手長・足長」そのものですから、この論理に無理はありません。この文書は、6年毎の「神社の建て替えは桑原郷の役」という諏訪神社上社の『造営帳』です。
『祝詞段』 「下十三所名帳」と同時代(1238)の記録ですが、湯神楽などで諸神を“紹介”する祝詞集なので当時の主要な神(社)が登場します。関連するものを抜粋し、「私が当てはめた」神社を右の〔 〕に挙げました。「佐久新海」は「先宮神社」の別称です。
ここでは「下桑原鎮守」に注目しました。「鎮守社」という表記なので現在の「手長神社」を指しているのは間違いありません。次の「上桑原」ですが、これには「鎮守」を付記していないので、まだ「荻宮社・祭神足長明神」として踏み止まっていることがわかります。ただし、『祝詞段』は「口に出して諸神を勧請する祝詞」ですから、語呂や調子が合うように省略・改変したことが考えられるので「厳密な解釈」は無理かもしれません。
『諏方大明神画詞』(1356) 〔御渡〕の段に「手長ありや(はいるか)」が出てきます。諏訪明神の御神渡りを見学しようとしたお坊さんが「手長明神に、行程7日のサナギ社(遠州)へつまみ出された」という話ですから、『上中下十三所造営』の「七日路遠江出御手給」と一致します。そのため、「『画詞』の手長」は「鎮守社である手長神社の手長」ではなく、諏訪明神配下の「先宮神社の手長明神」ということになります。
『諏訪神社縁起』 下野国日光輪王寺蔵『諏訪神社縁起上下巻』から〔四柱之大明神事〕の段です。編纂年が不明なので、取りあえずここに入れました。
一 佐久龍海※1小坂之大明神之御事
此の貳(二)神は御渡(※御神渡り)之時必ず原始※2也、此の龍海大明神は諏訪大明神之御乳母也、小坂の鎮守と貳神也、
「佐久新海大明神は、建御名方命の“乳母”」という表現から、先宮神社の祭神を『記紀』の「手摩乳命」と考えていることがわかります。
次は、「上社大祝家文書」から年月日不詳の『古記断簡』の一枚です。同じ内容なので、『縁起』を書き写したものと思われます。
一、佐久新海※1小坂大明神事
新海大明神は諏訪大明神の御めのと(乳母)と申也、小坂鎮守神御渡の時祕より※2給也、
『縁起』を読んだ大祝が、「手長明神を手摩乳命に見立てている。これは面白い」と書き留めたのでしょうか。
伝承にある「封じ込め」がよく言われていますが、祭神の手長明神は「人間が歩いて一週間かかる距離まで手が届く」ので、座ったままですべての用が足せます。これなら、わざわざ橋を架ける必要はないでしょう。
『武田勝頼造営覚書』 「諏訪子爵家文書」を見つけました。天正七年(1579)の文書で、前年が御柱年になります。「年を越してもまだ式年造営が済まないから、3月までに建て替えろ」という内容です。
内容は諏訪神社上社の式年造営ですから、ここでの足長・手長大明神は、「荻宮社・先宮神社」となります。
『社例記』 江戸時代の文書になります。解題に「延宝七年(1679)幕府よりの命により書き上げたる物之控えにして」とある『社例記』では、縁起から始まり「本社・前宮・退転・神宝・(後略)」の項目を並べ、それぞれの詳細を書き上げています。その一つである「摂末社」の中から、関係するものだけを転載しました。
ここでも、八劔宮から脚長明神までの順番は「下十三所」の「八劔・小坂鎮守・鷺宮・荻宮」と同じです。そのため、諏訪神社上社では、江戸時代でも「手長−鷺宮・足長−荻宮」と考えていたことになります。ところが、これでは(鷺宮の別称とされる)新海宮が宙に浮いてしまいます。しかし、『先宮神社誌』に書いてある「先宮には、鷺宮と新海社の二社があった可能性がある」を当てると“回避”できます。
『諏訪忠晴立願状案』 「立願之覚」とある、貞享4年(1687)の文書です。藩主忠晴が大阪城の警備に赴く際に、道中の無事を祈って願を掛けた文書でしょうか。前出の『社例記』の内容とはかけ離れた「諏訪神社」の実態が読み取れます。この年では、宝殿は再建したものの未だ神社としての体裁は整っておらず、摂社末社も荒廃したままであったことが窺えます。
一、上諏方 何よりも建立
一、下諏方 同断(※同じ)
一、八劔 同断
右の通り六月四日社参の節、立願掛け候間、(後略)
一、手長 同断
一、鷺宮 同断
今度大阪御加番怠無く相勤め(後略)
諏訪神社上社と下社は別として、八劔神社と手長神社は「高島城の守護として」再建を急いでいると理解できます。しかし、この“趣旨”では、その次に挙げた「鷺宮」の位置付けがわかりません。あくまで「案」なので、省略した部分があったのかもしれません。
ここに「鷺宮」が出る文書として挙げましたが、むしろ、「諏訪神社の拝幣殿が再建された時期」を知る文書になるかもしれません。
『信濃國昔姿』 “公文書”ではありませんが、乾水坊素雪が文政2年(1819)に書いた本から該当する部分を拾い出しました。「十三所」の紹介なので、各神社が中世の文献と同じ順になっています。江戸時代の文献では、「荻宮」の名は“稀少”になっているので、挙げてみました。
明治維新まであと50年余りという時代ですから、現在見る各神社の社地と社殿の規模をそのまま当てはめてもよさそうです。
『諏訪郡諸村並旧蹟年代記』 「慶應二年」の記述からその頃にまとめられた書物とわかりますが、著者名とともに詳細はわかっていません。ここに「一、文政七年戌申年十月小宮三社共に上桑原村御林より出る、…」とある「御柱引き」が載っています。何れも「二・三・四ノ御柱」は略としました。
あと2年で明治維新という時代です。「小宮」という書き方なので、「足長社・手長社」は、現在一般的に語られている「手長神社(手摩乳命)と足長神社(足摩乳命)」を指していることがわかります。
『上桑原村戸籍図面』
足長神社誌編集委員会『足長神社誌』の折込に、明治4年(1871)5月(上桑原文書 上桑原山林組合蔵)と説明がある口絵がありました。
右の「足長宮(足長神社)」に比べ祠が一つだけという神社ですが、荻を以て屋根を葺いたと伝わる荻宮が描かれています。明治初頭の作ですが、絵図に「荻宮」と明記してあるのはこの一枚だけかもしれません。
以上、目に付いた文献はすべて取上げましたが、図書館で閲覧できる資料だけでは内容が偏るのは否めません。それでも、その中から読み取れるのが、冒頭にも書いた以下の“区分け”です。
このように、諏訪神社上社関係の文献に出る「手長明神・足長明神」は、あくまで「鷺宮と荻宮」です。そのため、鎮守社の「手長神社・足長神社」とその祭神「手摩乳命・足摩乳命」を同列に置くと、誤解の元になります。
言い替えると、諏訪の神社や祭神に、「諏訪の歴史」を熟知しないまま(まじめに)『記紀』の記述(故事)を当てはめるのは見当違いということになります。