江戸時代の書物『洲羽事跡考』では、諏訪湖で逆さ富士が見られた場所として「辯天社の辺り」を挙げています。『諏訪藩主手元絵図』の〔小和田(こわた)村〕でその「弁才天」を見つけましたが、『慶応四年信濃国高島城下町絵図』でも、三之丸の堀端から参道が続く「弁天社」が確認できました。
Googleマップでその辺りを探すと、弁天町と弁天橋の名があります。しかも、絵図では斜めの参道が、そのまま家並みの隙間(p1−p2)として残っています。思わず「おーーー」と声を漏らしてしまいました。
こうなれば、もう現地へ行くしかありません。
プリントアウトした地図を手に、右は民家・左は事務所という小路の入口(p1)に立ちました。ところが、始めは確かに小路でしたが、すぐに、側溝を含めて1mもないという狭さに直面しました。
ブロック塀に右手を添えながら、長く伸びてしかも密生したスギナを踏み固めながら進みます。靴底に感じる凹凸に気味悪さと、こんな所を通って怪しまれないかという懸念が広がりますが、民家の切れ目に目を配りながら突き進みます。
しかし、何も得られないまま、右に弁天橋が見える車道(p2)に出てしまいました。「弁天社は、すでに消滅か」という落胆が広がりますが、振り出しに戻って、弁天町の住人にすがることにしました。
意を決して、「社会保険労務士行政書士」と看板がある事務所のカウンター前に立ちました。相手にとっては業務外の闖入者です。なぜここに来たのかの理由を地図を示しながら切り出すと、「この人の方が」ということで、奥にいた年配の女性を紹介してくれました。
やり取りをする中で、40年前という子供の頃に「公民館の横に鳥居があった」ことを思い出してくれました。しかも、その場所に◯印を付けた住宅地図をコピーしてくれる配慮もあって、退出時には、感謝の意を込めて何回も深く頭を下げてしまいました。
中門川に沿った道を行くと、「小和田地区公民館 弁天1・3分館」の入口に、御柱で囲われた石祠が見えます。「弁天社がまだ残っていた」と感動したのですが、その周囲を見回しても弁天社に関した表示はありません。
公民館は閉まっており、隣家も無住なのか応答がないので裏を取ることができません。この祠が弁天社でない可能性もありますが、参道跡を歩いたことは確実なので、太陽の過分な輻射熱とは別の熱さが体の中に満ちました。
今日は「逆さ富士」が目的ではありませんが、一応、富士山が見える方向を撮ってみました。しかし、御覧の景観では、この辺一帯が湖または一面の水田だったとは信じることはできません。直ちに、遙か昔を偲ぶことは止めにしました。
この日は諏訪市でも30度を超えて汗まみれになりましたが、大きな成果があったので意気揚々と自宅へ戻りました。車載の外気温計ですが、標高1000mの原村でも27度ありました。
探せば出てくるものです。寛文4年(1664)に作られた『御枕屏風』に「べんざいてん」を見つけました。絵図では一番古いものなので、『慶応四年信濃国高島城下町絵図』に描かれた弁天社の参道は、この頃は川であったことが推定できます。ただし、すべての川が余りにも直線で描かれているので、断定はできません。
次は、東京美術『甲州道中分間延絵図』の「上諏訪宿」の一部です。
江戸幕府の道中奉行所が寛政から文政年間(1800年頃)に作成した絵図の復刻版ですが、これに載っているということは、この時代でも結構知られていた神社ということになります。
冒頭で挙げた『諏訪藩主手元絵図』の〔小和田村〕です。諏訪史談会の復刻版からその一部を転載しました。ただし、高島城は、畏れ多いということで描いていません。
弁才天の右に描かれた「出湯」は、現在は取り壊された三ノ丸温泉の源泉「下鶴沼」ということになります。
高遠藩の儒者兼医師中村元恒の作とある『八詠楼之記』の一部です。
三之丸に八詠楼を造ったのは元文2年(1737)とあるので、彼の生没年を参考にすると、1830年頃の作でしょうか。この頃は、まだ「湿地時々沼」という景観であったことがわかります。
郷土出版社刊『図説・高島城と諏訪の城』にある〔三之丸とその周辺〕に、以下の文を見つけました。目次で確認すると、この章の担当は浅川清栄さんでした。
この祠が、八劍神社に移転した「厳島社(弁天社)」です。
確かに明治の神社合併で多くの小社が移転させられる憂き目に遭いましたが、地域の住民が祠を再建して相変わらず祀っているケースが少なからずあります。弁天町の公民館敷地にある石祠も、このケースと考えました。
次は、前出〔弁天社跡〕に添付してある「鶴沼湯」です。「2948番が官有地であることから、その区画が弁天社跡」と説明しているので、その部分を赤く着色して転載しました。
これを見れば、冒頭のGoogleマップで設定した「p1−p2ライン」は、「弁天社の脇を通る斜めの道跡」となります。
次は、三の丸温泉跡にある『三の丸温泉由来』の一部です。
〔弁天社跡〕に加えてこの記述ですから、「弁天社の脇を通る斜めの道跡」は「温泉引湯のパイプラインの道」と、不動のものになりました。
そのため、冒頭に挙げた『高島城下町絵図』にある弁天社の参道は、間違いということになりました。
ところが、拡大すると、正確な参道と境内を表す点線があります。完成後に気が付いて、「本当はココだよ(間違えてごめん)」と図示したのかもしれません。
昭和57年発行のガリ版刷り冊子ですが、小和田地区公民館編『小和田の昔ばなし』を見つけました。
ここに、◯◯が同名の宮坂さんと藤森さんが登場します。住宅地図で、弁天社跡とされている辺りに目を落とすと、宮坂◯◯さんの名前がありました。そうなると、藤森姓は誤記か記憶違いということになりますが…。それは経過報告として、弁天1・3分館前にある石祠が弁天社であることは消えました。同書に載る「天神」と「道祖神」のどちらかということになります。
平成28年になって、分館前の祠についての情報をメールで頂きました。
これで、分館前の石祠は道祖神と確定しました。
古絵図にある道が「三之丸温泉パイプライン埋設の道」とわかったので、その源泉を尋ねてみました。
まずは、三之丸温泉の源泉だった下鶴沼です。地図は持たなかったのですが、駐車場の隅に石碑があるのを見つけました。
近づくと、その右奥には、諏訪の常識である御柱で囲われた湯神があります。中を覗くと、「諏訪市統合温泉神社下鶴沼統合温泉組合の湯」の文字がありました。
石碑は下鶴沼源泉跡の記念碑ではなく、「宮坂玉治翁」の頌徳碑でした。従って、関係ある箇所のみを抜粋しました。
三之丸橋(右端)の袂に、湯気が上がる手洗い(つくばい)と、こちらも御柱に囲われた湯神の石祠がありました。
右側に『三の丸温泉由来』碑があるので、偶然に見つけた旅人でも、二つ並んだ怪しげなモノが何であるのか理解できるでしょう。
「三之丸温泉組合・下鶴沼統合温泉組合」とある碑文を転載しました。
石碑を正面に見る位置に立つと、背後が高島城の三之丸ということになりますが、川向こうの二之丸とともに、かつての景観は想像すらもできませんでした。
未だに『御枕屏風』が描かれた当時の地勢が現存しているのに驚き、その道を歩いたことに感動しました。それは初期の考えとは違った結果になりましたが、その評価が下がることはありません。