「擬祝」の読みですが、三輪磐根著『諏訪大社』では「こりのほうり」と振り仮名があります。他書には「ぎのほうり・ぎぼうり」が見られるので、時代によって変化があったのかもしれません。
前書『諏訪大社』では「初めは小出氏で後に伊藤氏」とあるので、この社家には変遷があったことがわかります。その伊藤氏ですが、高部歴史編纂委員会『高部の文化財』に「伊藤氏は昭和38年に家を処分し諏訪市へ移った」とあり、地元誌ならではの消息が載っていました。
その『高部の文化財』は「初めに造った邸の跡にはミシャグジ社がある」と書き、写真も載せています。それに引かれて、高部に繰り出しました。
「ミシャグジ社は鎌倉街道の近く」だけが手掛かりですが、現在の「鎌倉街道」は道の新設などではっきりしません。下馬沢川に架かる橋近くから「大祝廟」の脇を抜ける部分は地図にも見い出せるので、その道をたどって「近く」を見つけることにしました。
斜面に広がる畑の中を心細げに延びる鎌倉道は、現在は土止めの石垣上という畑の縁取りのような道です。「これでは鎌倉廃道ではないか」とぼやきながら山側に目をやると、写真にあった生け垣と鳥居が望めました。
道はありませんが、まだ耕作前なので畑を突っ切って生け垣の中に入りました。「伊藤氏が初めに居を構え、後に信長勢に焼かれた屋敷跡」ということですが、石祠のミシャグジ社だけが茅野市街を見下ろしているのを確認できただけでした。
紹介するなら「目に優しい緑の写真の方が」と再び出かけてみました。しかし、10月9日では、やや色あせた緑になっていました。
鎌倉街道側から祠の正面を撮りました。両写真とも傾いているのは私の根性のせいではなく、これだけの斜面にあるからです。
そのため、ここに居住するには、斜面の下方側に石垣を築いて平坦部を確保しなければなりません。今はその平地がありませんから、畑地とするには邪魔となった旧居の石垣を取り壊して一ヶ所にまとめたのが、祠下の塚となった石の山と考えてみました。
『高部の文化財』は、「移った邸は、西沢川沿いの水害のありそうな場所で、同じ高部の中でなぜこんな狭苦しい所へと疑問に思ったが、出奔(しゅっぽん)の後ではやむを得なかったであろう」と書いています。「出奔」は、『高部故事録』にある「神長官と坐席(※席次)の論を生じ他へ出奔、此時歴代の古文書等悉(ことごと)く紛失、屋形は頽廃(たいはい)せり」を読むとわかるでしょうか。
左は、神長官守矢資料館蔵『復元模写版上社古図』から切り取った該当する部分です。中央の川が下馬沢川で、右側の、道までしか描いてないのが西沢川です。上の「神長官」と擬祝邸でこの一画をすべて占めていますから、現在の様子からは疑問の声を挙げることになります。
こちらは、諏訪史談会編『復刻諏訪藩主手元絵図』です。こちらも概念図のような絵図ですが、縮尺だけは現実に近いようです。
『高部の文化財』に「モミジが一本だけ残る大道上の擬祝邸跡」とある写真をルーペで拡大すると、わずかに見える町並みの屋根と道路標識の頭からおよその場所がわかりました。こうなれば、現地へ行くしかありません。
県道脇で、写真にある「ガレージと隣の屋根」を見つけました。たまたま玄関先にいた夫婦に駄目を押してもらおうと、持参の本を示しながら訊いてみました。
ところが、ここからは目と鼻の先という場所ですが、なかなか話が通じません。それが、何と、「擬祝」ではなく「伊藤さん」で手打ちができました。やはりこれも時代でしょうか。明治に消滅した五官の擬祝より、道向こうの「伊藤さん」のほうが馴染みがあったのでしょう。
教えてもらった道は、神長官守矢史料館裏の小道でした。古びたアパートを見て、12年前の御柱祭を思い出しました。何と、前々回の里曳きで昼食休憩をとった場所でした。ここが擬祝邸跡だったとは…。敷地の一画には、まだ写真と変わらない太さのモミジがありました。
この写真は、「レストラン三ツ石」横の橋の袂から、西沢川を大きく入れて撮ったものです。アパートと車がある段上の敷地が擬祝邸跡です。これで、『諏訪藩主手元絵図』が極めて正確であることがわかりました。因みに、この西沢川は大祝の廟所(墓地)の前を流れている川です。
足長神社から撮った写真があったので添付しました。擬祝邸跡は、建物ではなく矢印下の空地です。