毎朝この黒い門を右に見ます。帰りは車の風圧を与えるほど接近しますが、闇と同化しているので、その存在を意識しないまま通り過ぎます。この辺りでは一番という門構えと本宮の手前に当たる立地に、自分にとっては一番ネームバリューのある「神長官」邸と思い込んでいました。
長期に渡って“御柱圏”に住み、「その時だけ諏訪大社の氏子」で通してきました。しかし、「それでは諏訪大社に申し訳ない」と、前宮から本宮まで歩いてみました。この時に、小さな説明板から「旧権祝(ごんのほおり)屋敷」の門と初めて知りました。「無断立ち入りを禁ず」との無言の圧力と、交通量の多さからくる人目を無視するわけにもいかず、外から覗くだけに留めました。
門から玄関前にかけての庭には手が入っているらしく、荒れたという感じはありません。しかし、当主が去って火の気が消えてから久しいのか、母屋は「張り」を全く失っており、廃屋と呼ばれる日も近いと思われます。誰が植えたのでしょうか、若木だけがその生命力を誇示するように芽吹き始めていました。
門の左に土蔵を見て、高く積まれた石垣を外れると、奥に通ずる小路があります。その敷地沿いの道から生け垣の間を透かすと、母屋と庭が露わになりました。3月もまだ初めとあって、敷き詰めたような落ち葉がわびしさと寒さを感じさせます。
県道側の石垣上を頂点とした斜面に、石祠や磐座らしき石が点在していることに気がつきました。こちらも、無住の屋敷という先入観から「荒れるに任せた」状態と見てしまいますが、落ち葉のみで「枯れ草」が見当たらないので手は入っているようです。最後に、最上部の祠を「権祝の御社宮司(ミシャグジ)社」としました。
御頭祭の行列が黒門前を通過するシーンです。前3枚の写真がわびしいので、賑やかく華やかな一枚を加えました。
古くは茅野市高部の扇状地に居館がありましたが、天文の頃に矢島重綱がこの場所に移したそうです。「風祝・権祝」と「高部の権祝邸跡」の詳細は、以下のリンク「権祝と風祝」で閲覧できます。