長野県教育委員会編『歴史の道調査報告書』の一書である『大門道』に、〔金沢宿から湯川への道〕の章として《御射山道》の項がありました。自宅近くを通っていることもあって、散歩がてらに出かけてみました。
地図の「御射山道」は、現地では「こんな所に道がある」という一車線幅の砂利道でした。その先は、最短距離をとるかのように、目前の小尾根に向かっています。畑中から緑のトンネルに入ると、車道に沿うような凹みの帯が続いています。かつての人馬用の御射山道でしょうか。
見通せなかった右側の林が疎らになると、一気に明るさの中に飛び出しました。ささやくような水音も今ははっきりとした瀬音に変わっています。
この場所には見覚えがあります。「道脇の木二本とその間の石祠二つ」とあれば、このサイトで紹介している「野辺の祠」※です。御射山道がここに繋がっていたことに驚きました。
刈り入れの終わったあぜ道に慎ましく鎮座しています。祭祀者(所有者)や農作業に通う人にしか顧みられない、(多分)祭神名も不明な石の祠です。
雪に埋もれ夏草に被われ、朝日を受け夕日に照らされる。自然と完全に同化したこんな祠が諏訪には幾百とあるのでしょうか。
上写真と同じ祠を夏に撮ったものです。夏草に完全に埋もれていますが、もちろんこの状態で一夏過ごすわけではありません。たまたま草刈り前、というタイミングです。来年は御柱祭ですから、丸5年経ちすっかり白くなった一之御柱が傍らの木に立て掛けられていました。画質の大幅な違いは、カメラが新しくなっているためです。
「野辺の祠1・2」で紹介しましたが、今日は草が刈られて間もないようで、祠も御柱も見えます。
それにしても、この道が「御射山道」とは知りませんでした。今その道に実際に佇んでいても、「そう言われても…」が心境です。
ところで、どこにでもある石祠を「野辺の祠」として、わざわざHPの一ページを割いて載せていたのは何故でしょうか。大祝の残留思念を「何か気になる祠」として感じていたのでしょうか。
最近「御射山道」の資料を集めています。8月26日、地元関係は原村図書館でと意気込みましたが、これといったものが見つかりません。その中で鎌倉親喜著『姫ばらもみの里』がありました。
内容は「払沢」の由来ですが、この中に出てくる「石祠二つ」に思い当たるものがありました。これが標題にした、由緒ある「ハレン沢の石祠(御射山道)」でした。大祝も神輿もこの前でお祓いをしたとは驚きです。「野辺の祠」を嘆いた祭神が、7年の歳月を掛けて、原村鎌倉親喜さんの『姫ばらもみの里』を開かせたのでしょうか。
このサイトを続けていれば、「いつかはこの結末にたどり着く」と考えたほうが自然でしょうが、私は何か熱いものを感じました。
寛政の頃書かれた、著者不明という『諏訪誌』があります。「一、七月廿七日御射山祭事ハ…」と始まる項に、
とあります。「長峯(峰)から一里余」とありますから、同じ「ハレン沢の石祠」でしょう。
細川隼人編『富士見村誌』には、「(明治初年までは)27日の本祭りには、大祝は室内には出ずに祓沢(はれんさわ)に出て、御射山の大祝の小屋(穂屋)に入って祭事を行った」とありました。
平成26年10月8日に、「菖蒲沢に伝わる御射山道」として、村の史跡に指定されました。
平成27年9月21日に現地へ行ってみましたが、これも時代でしょうか、背後の田圃は休耕田になっていました。
案内板「伝承の地 菖蒲沢に伝わる御射山道」を転載しました。