諏訪市教育委員会『諏訪市の遺跡』にある〔遺跡分布図〕を見る中で、「昼タタエ遺跡」を見つけました。「仏法寺の谷先端にあり、小祠が祀られている。諏訪神社上社のタタエ神事の行われた場所」と解説があります。
その近くに旧甲州街道が通っています。しかし、タタエ(以降は湛)神事は鎌倉時代の話ですから、当時の幹線道路「鎌倉街道(通称は鎌倉道)」がどの辺りを通過していたのかを調べてみました。
諏訪史談会『諏訪史蹟要項十二 諏訪市四賀篇』から抜粋しました。
「足長神社拝殿前の小道」のように、今まで見聞きしてきた鎌倉街道は、街道と言っても山裾に沿ってウネウネとした“山辺(やまのべ)の道”でした。『諏訪史蹟要項』でも「山畑の中」とありますから、今では、この道を歩くのは難しいでしょう。実は「平成の偉業 諏訪における鎌倉道を完全トレース」を書ける日を夢見ていますが、未だタイトルのみで、一歩も踏み出せていません。
湛神事を行った「神使(おこう)」の一行が、必ずしもこの道を通ったとは限りませんが、とりあえず遺跡分布図の800m等高線を着色してみました。
いずれにしても、左の旧甲州街道を見れば、この辺りを通るしかなかった当時の地形がわかろうというものです。
『年内神事次第旧記』には、「大県(おあがた)」担当の神使が湛神事に向かったコースが窺える記述があります。地名と湛木名に関するものを拾うと「上原神主(こうぬし)・干草(ひくさ)神主・松木湛・下桑原神主…」となります。
次は、『諏訪信重解状』です。
ここでは、茅野市上原と下桑原(諏訪市上諏訪)が夜留(宿湛)※ですから、「所々」──即ちその間にある干草湛と松木湛が昼湛ということになります。しかし、その湛の場所は研究者も決めかねています。
茅野市と諏訪市の間を三等分して“その辺り”と決める方法もありますが、私はボールペンを倒して、「昼タタエ遺跡」は松木湛が相当するとしました(ウソ)。
『諏訪市の遺跡』に折込の「遺跡分布図」は、1/5000地図がベースです。詳細ですが、目標となる寺や学校が見通せないので、道一本間違えてしまいました。改めて(結構な坂なので、上るではなく)登り直し、地図通りに次の小路を右に曲がると、正面は畑でした。
この写真は、左方(→)から来て突き当たった畑を少し下り、上部を仰ぐ形で遺跡全体を撮りました。その一画(□)にあったのが、諏訪市教委が言う「小祠」でした。
まだ新しい祠が二棟並んでいますが、人家に近接しているので、カメラを向けるのがためらわれます。
プライバシーへの配慮と生活感が出ないようにトリミングした結果、背後がゴチャゴチャしてしまいました。祠の四隅に立っている杭は、もちろん「御柱」です。
案内板がありませんから、どちらが「湛神事」に関係する祠なのかはわかりません。しかし、それを特定する必要はないでしょう。とにかくこの辺りに(松としたい)大木があり、村人が参集し、「昼湛」ですから神使が馬に乗ったまま三周し、御杖に付いた宝鈴(鉄鐸)を鳴らした、と想像してみました。しかし、山の紅葉は千古変わらずとも、この景観では…。
カタカナの「昼タタエ」で検索しても無駄だろうな、と思いつつ実行したら、諏訪市教育委員会『市内遺跡発掘調査報告書(平成24年度)』が表示しました。冒頭の『諏訪市の遺跡』は昭和58年の発行なので、「昼タタエ遺跡」としては最新版となります。
この報告書は原本をスキャンしてpdf化したものなので、“コピペ(コピー&ペースト)”ができます。関係する箇所のみを転載しました。
これを読んで、発掘そのものは三年前に初めて行われたことがわかりました。
報告書には著作権があります。どこで公開しているのかを調べたら、独立行政法人『国立文化財機構 奈良文化財研究所』のサイト『WEBで発掘調査書を読める 全国遺跡報告総覧』でした。検索機能があるので、読んだ(見た)ことがある「磯並遺跡」を打ち込んだら、82頁の冊子が表示しました。茅野市の図書館にあるものと同一のものでした。発掘調査書を閲覧したい人は、重宝するサイトかもしれません。