青柳駅の近くに、鳥居の白さで気が付いた神社があります。いったん記憶に留めてしまうと、国道からは見下ろす場所で見にくいのですが、通過する度に(チラッとですが)注視してしまいます。
金沢宿を歩いてみました。その端に達したので、“延長線”として、「ただの祝神(いわいじん)」かもしれない、白い鳥居の背後にある神社を訪ねることにしました。
御柱祭で「木落し」をする宮川も、ここまでさかのぼれば小さな川になっています。車から見ていた道を、今日は自分の足でその川辺まで下りました。徒歩の目は、橋を渡る前に、鳥居と玉垣の白さが新造されたものによることに気づいていました。
鳥居の前に立つと、同じ白さの石像が一体加わりました。「由来碑」を読むと、鬼子母神です。神様には失礼ですが、その大きさに、私には違和感のある存在としか映りませんでした。
中央の「蚕玉大神」を仰いでから、右側にある同一規格の「穂屋之木大明神境内整備記念碑」を読んでみました。
何と、(見たことも食べたこともありませんが)「新宿三平」会長の寄進と書いてあります。彼は、諏訪大社上社へも(総額一億円を超すのではないかとの噂もある)鳥居や玉垣を寄進していますが、出身地である金沢のこの神社にも、鳥居と玉垣・鬼子母神の寄贈をしたことがわかりました。
灯籠の正面に、「山宮虚空蔵菩薩」と彫られています。時計回りに、「穂屋木大明神。赤井澤施主・寛政四年(1792)」を確認しました。
一方の目測で全高60cmとしたの石祠ですが、その周囲を二回廻っても文字を見つけることはできませんでした。
「禰宜坂(以下祢宜坂)」に惹かれてガードをくぐってみましたが、それらしきものは見えないので、目の前の山を眺めただけで引き返しました。
図書館で、穂屋之木大明神を調べてみました。しかし、「昔は赤井沢の氏神だった」という記述が、灯籠の銘「赤井澤施主」に繋がっただけで、詳細はわからず仕舞いでした。
平成21年3月8日。穂屋之木明神から、祢宜坂と思われる道を歩いてみました。
JRのガードを抜けた先の山際で、道が分岐しています。その周辺には、並んだり離れたりと思い思いの場所を選んだかのような石祠が幾つかあり、つい立ち止まり見入ってしまいました。
その横を登る落ち葉に埋もれた山道を選ぶと、遊歩道によくある土止めの丸太を左右の杭で止めたやや広い道が続きます。そのスパンは長く、あえてその必要はないという傾斜から、この坂道は祢宜坂ではないとしました。
その道も、すぐに原村へ向かう車道に突き当たってしまいました。舗装道路を横切ってさらにその先を目指しますが、工場団地内のコスモス工業に行く手を阻まれ、祢宜坂をたどる旅は強制終了となりました。
その後、前出の碑文に「穂屋之木大明神は祢宜坂の登り口に鎮座している」とあるのに気が付きました。昭和23年の航空写真と突き合わせてみると、祢宜坂は廃道になり、その代わりに整備されたのが私が歩いた道だったことがわかりました。
金沢村史刊行会編『信州金沢の歴史』に、碑文とは異なる「穂屋の木は樹齢五、六百年の樅の木。枯損が進み昭和34年に伐倒された」とありました。複線化前の航空写真(上)では線路から離れているように見えますから、私は『信州金沢の歴史』の「枯損」を支持することにしました。
上の航空写真では範囲外ですが、当時の参詣道らしい断片が工場団地内に残っています。そこを突っ切って御射山社へ続く道を完全トレースするのは困難ですから、昭和6年当時の地図を用意しました。
「全ての道は御射山社に通ず」ではありませんが、甲州街道からは御射山神戸からの参詣路もあります。八ヶ岳下の、甲州街道のバイパス的役割もあった富士見や原村からの御射山道もあります。御射山のお祭りには、四方八方から御射山社に向かったのが容易に想像できます。
青柳駅前から橋を渡った国道下の道に、「御射山参詣道」碑がありました。諏訪大社・高階研一宮司の銘が入っています。青柳駅を降りた参拝者は、この碑を見て御射山社へ向かったのでしょう。