松本藩の地誌『信府統記』の〔諏訪郡〕に、「当社の祭礼は毎年三月酉の日なり」で始まる「御頭祭」が書かれています。関係する部分だけを転載しました。
ここでは根曲りの太刀と藤刀を混同しています。これは(他藩の調査だから)許せるとしても、「藤島社は田部(たんべ)村にある」という記述はまったくの誤りとしていました。それが…。
下図は、諏訪史談会編『復刻諏訪藩主手元絵図』にある「田部村」の一部です。左上に「ゑ川(※江川・枝川)先神宮寺分」「大橋已(より)道先神宮寺」と読めるので、斜めにカットされた川と道が神宮寺村との境であることがわかります。
その村境に鳥居と社殿が描いてありますが、現在の諏訪市田部にはそれに相当する神社はありません。その不思議さに、読めないので無視していた「□で囲った文字列」を拡大してみました。
「もしや」と閃いて先頭4文字を「神宮寺村の藤嶋社」に並べると「藤嶋」が一致し、「藤嶋明神」と読めます。それに伴い、「藤嶋明神田部村うぶすな(産土)」と解読できました。そうなると、この藤嶋明神が『信府統記』で言う「田部村の藤島社」と重なります。
一方で、川と道に掛かった斜めの - - が気になります。左が「神宮寺(と)申(す)田地」で右が「田部村田地」ですから、これは境界線で、藤嶋神社は神宮寺村にあることになります。
ところが、田辺村では「藤嶋神社は田部村の産土社」と書いています。一体、どうなっているのでしょうか…。
改めて絵図全体を眺めて、中央部(藤嶋明神の下)に書かれた「社宮寺分田地」が、周囲の状況から見て「神宮寺分田地」の誤記だと気がつきました。こうなると、左下では用水路と宮川に挟まれた細長い土地が田部村ですから、江川と田部用水汐(せぎ)の内側=絵図の大部分が(田部村に食い込んだ)神宮寺村ということになります。
その中に「田部村田地」から越境した「藤嶋明神田部村うぶすな」の文字ですから、田部村では“藤嶋神社はおら方のもの”と考えていることになります。言い替えれば、「藤嶋明神の社地は、田辺村の飛地」ということでしょう。この流れでは、私が疑問を呈した「田部村に藤島社」ですが、『信府統記』は正確に捉えていたことになります。
『諏訪郡諸村並旧蹟年代記』に、「神宮寺分田地」と同じような言い回しの「一、神宮寺村分藤嶋社」を見つけました。
「村分」が正確に理解できていませんが、この時代では「藤嶋社は大熊村が造り・御柱祭を含めた祭例は田部村が負担・神宮寺村は酒(代)を出すだけ」ということでしょうか。
これは、宮川の氾濫などで三村の境界が一定しなかったために、藤嶋社の地籍が複雑化したのかもしれません。その結果、藤島社の維持管理は、神宮寺・大熊・田部の各村が三つ巴になって行ったと言えそうです。
長野県教育委員会刊『諏訪信仰習俗』から、〔一、小宮のおんばしら〕の一部を転載しました。これより、「藤嶋→藤島・田部→田辺」と表記します。
御柱ではありませんが、諏訪大社の神職が参向する11月25日の「藤島社祭」は、神宮寺区と田辺区の両関係者が参列しています。そのため、現在も、神宮寺村と田辺村の旧慣が守られていることになります。『諏訪藩主手元絵図』の表記を完全に理解できたわけではありませんが、「藤島社は、かつては田辺村にあった」と断定できそうです。
抜粋です。