諏訪神社(現諏訪大社)上社の「中十三所」では、トップに位置するのが藤島明神です。現在も諏訪大社“所管”の摂社なので、藤島神社ではなく「藤島社」としました。上社の御田植祭はこの藤島社の斉田で行われます。
かつては「御座免」に鎮座していましたが、昭和46年に、土地改良事業と中央道開設に伴い現在地へ移転しました。現在は、藤島社の鳥居前に立つと、植生されていますが圧倒的な大きさの中央自動車道の盛り土が左肩に圧迫感を感じさせます。
残念ながら、移転前の原風景を知りません。高速道路を消滅させてから「田圃の中に遠目にも指させる藤の大木があり、その樹下に藤島社の祠があった」と想像力をたくましくしてみましたが…。
藤島神社というと、「洩矢神に勝利した諏訪明神が使った武器(藤)が根付いて…」という話が思い浮かびます。大祝家文書『信重解状』ではこの藤島社が該当しますが、ここでは『諏方大明神画詞』の「藤嶋明神」の段を紹介します。
これを読むと、「諏訪明神が戦勝地に記念樹として植えた藤を祀ったのが藤島神社」と解釈できます。しかし。藤明神(藤社)や藤枝明神(藤枝社)なら「なるほど」と納得できますが、なぜ藤「島」なのかが疑問として残ります。
宮地直一著『諏訪史 第二巻後編』に、〔第四二図 藤島社〕とある写真を見つけました。この本は昭和12年の発刊なので、それ以前に撮られたものとなります。
場所は特定できませんが、“地平線”に連なっている木々が、旧宮川の堤防に沿ってできた屋敷林と推定できます。
国土交通省『国土画像情報』を閲覧すると、昭和50年撮影のカラー版ではすでに耕地整理が完了しており、田畑はマス目状になっています。昭和40年9月版を見ると、まだ当時の畦が残っていました。
藤島社の旧鎮座地は「御座免」としかわかっていません。ところが、藤島明神が手引きをしてくれたのか、中洲公民館刊『中洲村史』で「中洲字界図」を見つけました。その字(あざ)「御座免」の境界を、写真では縦横に張り巡らされている畦道の線に求めると、同じ形が見つかりました。
周囲はすべて田圃なので、この境界の隅(右下)にある、家二軒ほどの“黒い土地”を「藤島社旧跡地」としました。現在は、「シントク(株)」の敷地内でしょうか。