「御頭」が付く御社宮司社が諏訪には幾つかあります。現在は「それって何」となっている「諏訪七島」ですが、その一つである「福島」に鎮座する「福島御頭御社宮司社」がその一社です。
この神社が「福島公民館の近くにあり、本殿が立川和四郎富昌作で市の文化財に指定されている」ことは知っていました。ところが、長野県神社庁の「神社一覧」で探すと、「字(あざ)福島」に該当する御社宮司社はありません。試しにネット地図で「福島公民館」を表示させると、その近くに「コーポ開戸」があることから、神社一覧の「諏訪市大字中洲字開戸」が福島御社宮司社の住所と知りました。
「親郷」の「旧福島村」ですが、現在の住所表示では「字」にも「福島」が使われていないことを知りました。しかし、「開戸御社宮司社」では馴染めません。やはり「福島+御頭御社宮司社」としました。
御頭祭の“昼休み”を利用しての参拝ですから、余りの上天気に、諏訪大社本宮からの早足では汗をかいてしまいました。
地図ではピンときませんでしたが、公民館を目にすると「何だ、ここだったの」という場所でした。すぐ横が幹線道路なので、知らずに何回もかすめていたのを知りました。
「桜が咲き始めると御頭祭(御頭祭の日が来ると桜が咲く)」と言われますが、今年はそれを祝うように“ところ構わず”満開でした。ここ御社宮司社の桜も、まだ花びらを散らすことなく大きく梢を揺らしていました。
境内にある案内板から、本殿の説明を省略して転載しました。
扉の格子を通してという制約があるので、ワイドでも社殿の全体像を収めることができません。さらに、私の背中は桜がまぶしいほどの陽光ですが、カメラの目は「暗いよ」と警告を発しています。それを無視し、息を止めて静かにシャッターボタンを押しました。
目的の写真を確保したので、諏訪市教育委員会が設置した案内板の前に立ちました。しかし、いくら高名な立川和四郎富昌棟梁でも、苦手な専門用語に囲まれていては…。斜めに読み飛ばしました。しかし、結局は、自宅でその「案内」をじっくり読むことになりました。
このサイトでは、私のこだわりから、案内板の内容を写真ではなくテキストに変換しています。メモ代わりの写真から文字を起こして振り仮名を加えたのが、以下の“案内板”です。
正面の彫刻しか見えませんから、案内板にある「向拝柱の虹梁上の通玄仙人の持つひょうたんから駒」のアップを紹介します。彫刻の細部については、誉め言葉を本や案内板から流用するのはイヤなので、「見ての通り」としました。
中洲公民館刊『中洲村史』では、以下のように書いています。
嘉禎3年(1237)の『祝詞段』には「福島鎮守レイノゴゼ(禮の御前)」が見えます。現在の本殿が造営された百年前の『諏訪藩主手元絵図』には「鎮守」と書いてあり、近隣に「礼ゐの御前」があります。また、立川和四郎富昌が上棟式のために作った木槌には「八剱大明神上棟槌」・棟札には「奉再建八剱宮」とあるので、八剱神社ということになります。
御頭御社宮司社は、本来は、御頭郷の当番年だけに“使われる”神社です。鎮守社や八剱神社とは別物のはずですから、『祝詞段』に出る「福島鎮守レイノゴゼ」は「福島鎮守“は”レイノゴゼ」と読むべきでしょうか。それとも、鎮守社(は八剱神社)とレイノゴゼは切り離すべきでしょうか。ウーン、何分にも昔のことで…。
『祝詞段』は、口に出す詞を文字に直したものなので、句読点がない曖昧さが、後の時代に混乱をもたらす原因になったと思われます。それとも、余人には理解できない“事情”があるのかもしれません。