諏訪には宗教法人(神社庁所管)の御社宮司社は何社あるのだろう、と調べてみました。長野県神社庁『信州の神々』の「神社紹介」から「諏訪支部」を開くと、その中に「御社宮司社・諏訪市大字(おおあざ)豊田(とよだ)字西裏1461」がありました。
豊田は、下水汚泥の焼却灰から高濃度の金が検出された「諏訪湖流域下水道豊田終末処理場」として知っています。しかし、「その近辺」という大ざっぱな区域の中で詳細な「西裏1461」を挙げられても…。
番地表示がある『MapFanWeb』のサイトを開きました。豊田の番地を追うと、1436と1521番地の間に「鳥居の凡例」があります。別の地図サイトでその場所を拡大すると、「御社宮司社」の文字が現れました。これで、神社庁登録の「御社宮司社」に間違いないことがわかりました。
ここで、字「西裏」が「何」の西の裏に当たるのかが気になります。地図で確認すると「極楽寺の西」にあたるので、それが字になったと納得しました。
法人グループに入っている御社宮司社は、この神社を除くとすべて参拝済みです。こうなれば「全社制覇(参拝)」をするのが自然な流れと勇んで出掛けましたが、現地で目にした神社は、地図では想像できなかった「田んぼの真ん中」にありました。背景に目をつぶれば「大草原の小さな神社」といったところですが、現実は、休耕田を前にした御社宮司社でした。
境内の左がゲートボール場で、右側には遊具があります。年寄りと子供が憩える神社のようですが、周囲は新しい家が散在しているだけです。いったい、どこから通ってくるのでしょう。不思議な景観に映りました。
拝殿を一周りすると、見覚えがある「造り」であることに気が付きました。諏訪大社本宮の「宝殿」です。式年造営で建て替えた時に、古社殿をここに移築したのでしょう。
小宮としては大きな御柱ですから、今でも盛大な「建て御柱」を行っていることがわかります。しかし、外部の人間が頼りとする「由緒書き」がないので、見た目以上のことはわかりませんでした。
機会あるごとに図書館で調べますが、極楽寺や八剣神社の記述はあっても、文出の御社宮司社は皆無です。東へ200mという近さに「宮川」が蛇行していますから、洪水で何回か流されて所蔵の古文書が失われたのかもしれません。
豊田村誌編纂委員会『豊田村誌下巻』が発刊されました。さっそく手にすると、由緒が載っていました。ここには、御社宮司社とは異質の祭神が祀られているのが不思議ですが、そのまま転載しました。
祭神 出速雄命、伊雑皇大神(いぞうおおかみ)、地元ではおくわさまともいう。
由緒 篠原讃岐守(永禄・弘治頃の武田氏に属す)の屋敷跡との伝承地である。大正十四年五月の調査によると、社の側の地下二尺程の下に大石が伏せてあったという。
現在の覆屋は平成四年、上社御宝殿を下賜され移したものである。社殿は覆屋内に昔のまま鎮座されている。
社地 文出区小字西裏 東西七間、南北八間、面積五十八坪。「柳の古木あり。耕夫木洞に入りて急雨を凌ぐに足れり」と明治初め頃までの伝承がある。
冒頭の表現が微妙です(よく理解できません)。そのこととは別に、(旧)文出村の中に、産土社の「八劍神社」と、御頭郷の年にミシャグジを祀る「御社宮司神社」の両社があるのは諏訪では一般的なことです。また、かつては精進潔斎を行う御頭屋を御社宮司社の側に造りましたから、田圃の中にこの神社があっても不思議ではないことが理解できました。
「社殿(旧宝殿)は覆屋内に昔のまま鎮座されている」とあるので、参考までに、宝殿の扉が残っている写真を追加しました。格子の間から撮ったので、それ以外の造作を写すことはできません。