「諏訪七石」の一つ「小袋石」が、下馬沢川の上流にあります。その磐座を崇めるように、「上十三所」に含まれる摂末社四社が展開しています。左の神長官守矢史料館蔵『復元模写版上社古図』では、と説明するより□を見てもらった方が間違いないでしょう。
現在は、図中の四社は石の祠で、小袋石の下からほぼ等間隔に斜面に沿って並んでいます。ただし、「日月神」は現在跡形もありません。その中で中核となるのが「磯並社(いそならべしゃ)」です。上社の重要な神事には全て絡んでいるので、前宮成立以前の磐座信仰遺跡とされています。
小袋石から一番離れた最下壇に坐す磯並社は、高さは目測で1.5mあるかなり大きな石祠です。
かつてはこの前に、帝屋・五間廊・舞屋などがあったのでしょう。車道からも、今も平坦部が幾つかとその石垣が望まれます。
先週「磯並社祭」が行われたので、草というか藪が刈り払われ見通しが利いています。これから今年の草が萌え小木が芽吹くので、写真のように祠が連なるシーンが見られるのは後わずかと思われます。
『諏方大明神画詞』から磯並神事の段を転載しました。
地元高部には、名主の記録『万年日記』が保存されており、その一部が高部歴史編纂委員会編『続・高部の文化財』に載っています。その中に「磯並之社及大破」がありました。
この後に編集者の解説があります。
中世までは、磯並社に限らず大宮(現諏訪大社上社本宮)やその摂末社の社殿・鳥居・玉垣は、6年毎の「式年造営」で造り替えられました。それを担当する郷村も決められていましたが、諏方神社の衰退と共に次第に放置され、江戸時代では地元(高部区)が管理するしかなかったということです。