茅野駅で、メインタイトルは「おいでなして 茅野駅周辺味な街 清水と古跡の小道」ですが、茅野周辺タウンガイドマップ2007年春号『駅周辺ぶらり散歩 清水と古跡の小道』という長い名前の絵地図を手にしました。片面の「駅西口周辺」に目を通すと、「蟹河原」が目に留まりました。
蟹河原は、『神長官守矢史料館のしおり』にある「…稲作以前の諏訪盆地には、洩矢の長者の他に、蟹河原の長者、佐久良の長者、須賀の長者、五十集の長者、武居の長者、武居会美酒、武居大友主などが住んでいたそうです…」の「蟹河原」です。蟹を「がに」と読むのが、何か曰くを感じさせます。
3月下旬。下り坂が確実という薄曇りの下、達屋酢蔵神社から蟹河原を目指しました。「うとう坂(唄坂)」から、茅野TMOが設置した道標に従って右に曲がります。「春の小川」の風情が残っている水路には、水草が流れに身を任せて揺れていました。名前知らずの菖蒲の葉状の水草・バイカモ・小さな浮き草です。気温は10度を超えているはずですが、正面の風が強引に襟を押し分け寒さを感じます。川沿いの黄梅はすでに色が褪せていました。
遺跡の案内板(写真中央)から上は、やや勾配のある畑が広がっていますが、それも急激に立ち上がる高い段差に阻まれています。“舞台造”も多くあり、表一階(実は)裏三階建ても見られます。電柱は国道20号沿いにあるものですから、よく通る商店街の国道も、片側の家並みの下が崖であると初めて知りました。当に特異地形です。
茅野断層 『地理院地図 Vector』で〔活断層図〕を参照すると、上写真の旧国道(家並み)に沿って「茅野断層」と呼ばれる縦ズレの断層[┳]が走っています。特にこの附近では顕著に見られるので、一部加工して載せました。
少し離れますが、国道脇「水準点788.0m}と達屋酢蔵神社付近「標高点772m」では16mの高低差があります。よって、以下に出る「沖積台地の西端崖」は、断層によって生じた断層崖となります。
案内板の「湧き水」に惹かれます。流れに沿って湧水部を探すと、一ヶ所だけ、石の隙間から目に見える小さな波紋が確認できました。徐々に水量が減った川は、上りとなった道にいつの間にか消え、その先をさらに詰めると見覚えのある車道に合流しました。左を仰ぐと、国道との交差点にある諏訪大社の大鳥居でした。
帰途に同じ道を選ぶと、その中程でお年寄りとすれ違いました。その前に子供からの「こんにちは」に同じ言葉を返したこともあって、挨拶をしました。通り過ぎてから「このまま帰るのは…」とその後を追うと、「こんにちは」が効いていたのか、私の問いに気持ちよく応じてくれました。
「(水路から崖まで続く畑にある)「横内菜」は、冬枯れても新しい芽を出し彼岸過ぎには食べられる。今年は暖冬なので、もうコワくて食べられない」と言います。よく見ると、確かに蕾が見えます。
「東と南風はあたるが、西と北風は上を登ってゆく。石が多いから日中の蓄熱で夜間も暖かい。この崖はフォッサマグナの断層の跡。(昔は)田圃があったので今でも(水路に)浮き草がある。明日は出払い(共同作業)で水草の除去がある」 「子供の頃はカニが捕れたが、(捕るために護岸の)石を崩すのでよく怒られた。上の幾つかの事業所(具体的な名前が挙がりましたがここでは控えます)がボーリングして地下水を汲み上げているので、水量は半分に減ってしまった。市では案内板を立て散歩道のコースを指定しても、(片側はコンクリートで固めてあるので反対側の)護岸石の整備はしてくれない」とこぼしました。
私は、今は片側になってしまった積石の方が自然のままでよい(茅野市もその方針と)と思うのですが、地元としては何か思うものがあるのでしょう。
なかなかの博識で私とよく話が合います。その中で、私も入院時に経験がある、鼻に付けたチューブが気になっていました。その先をさりげなく目で追うと、携帯用の酸素ボンベです。それを収めたこれもまた携帯と言えそうな一輪車を左手、右手には菜っ葉の入ったカゴという出で立ちでした。
別れ際に、一カ所だけに咲いていた「ナノハナ」を持ち出すと、「それが横内菜」と言われてしまいました。実は、この時まで「ナノハナ」を固有品種の名前と狭く捉えていました。彼はそれを指摘したわけではありませんが、確かに、「ナノハナ」はノザワナなどの「菜」の「花」でした。
彼が口にした「横内菜」は、地名である「横内」固有の在来種でしょう。もしかしたら、蟹河原の長者が栄えていた頃からあったのかもしれません。案内板にあるように、豊富な水がこの辺りを富ませて「蟹河原長者」を誕生させたのでしょう。現地に立つと、口碑でも納得できるものがありました。
調べると、「【菜の花】は、アブラナまたはセイヨウアブラナの別名のほか、アブラナ科アブラナ属の花を指す。アブラナ属の主な種の一つに、アブラナ(在来種を含む)・ミズナ・カブ・コマツナ・ハクサイ・チンゲンサイ」とありました。カブやコマツナはともかく、白菜(ハクサイ)の花が想像できません。
古来からの道とあって車が通行できない「うとう坂」をはさんで、左が「下蟹河原」になります。
一旦大道まで下り、右方の家並みの隙間から断層崖を見ながら、それに付かず離れずの道を歩きます。鳥居が望めるので、そこへ向かう小道に入ってみました。
辺り一帯に小さな祠が幾つか確認できます。いずれも御柱があるので見落としがありません。その一つに寄ってみましたが、鳥居と燈籠が完備していても、祭神は確認できません。
この小路の先は、(バイパスができたので)旧国道です。それはわかっていましたが、下から登ると「アッ、ここに出るのか」と、魔法のように現れた見覚えのある街並みに驚きました。まるで「天と地の連絡通路」のようでした。商店街は徒歩でも車でも数え切れないほど通りましたが、人一人がやっとというこの小路の存在には気が付きませんでした。
上に一部見えるのは、裏から家屋を支える鉄骨です。その下にひっそりと佇んでいたのが「まき・巻」と呼ばれる同族の祝神です。その退色具合から正月に供えたのでしょうか、輪注連(わじめ)がポツンと置かれていました。
後日、「天白(神)」関連の本に見覚えのある写真を見つけました。文と写真から同じ祠であることがわかりましたが、「天白七五三(しめ)社」と固有の名があります。ここで、祠の側面に「天白七五三」と刻まれていたのを思い出しました。
実は、考古好きの仲間から「天白も面白い」と聞かされていましたが、「ミシャグジ」だけでも持て余しているので、深追いを止めているうちに忘れていました。