【 風祝・風の祝 】 どちらが正しい表記なのかわかりません。書くときは「風祝」で、読む(話す)ときに「の」を加えるのでしょうか。諏訪では私的な古文書に「風祝」が見られるものの、一般的(公)な古文献にはその文字は書かれていません。それとは別に、地元の研究者は「権祝・副祝・擬祝」に「の」とふりがなを付けていますが、「風祝」は「風の祝」と表記しています。
【 ほうり・はふり 】 「祝」の読みも、辞書は「はふり」の一点張りですが、『一太郎(ATOK)』は「ほうり」を「祝子」と変換しました。三輪磐根著『諏訪大社』は「ほうり」です。諏訪では公私を含めた本はすべて「ほうり」なので、私もその度に「子」を消すのが面倒なので「ほうり→祝」で辞書登録をしました。
江戸時代初期とされる、神宮寺区蔵『上社古図』があります。この絵図に標題の「風無神袋風祝塚」が書いてあるので、どう読むかはその人に任せるとして、ここでは「風祝」で表記することにしました。
「風祝」というと、必ず出てくるのが『清輔袋草紙』に収められた源俊頼の歌です。地元の諏訪ではなく遥か彼方の都人が注目したところに、「風祝の位置付けがわかる」といったところでしょうか。
さらに、選者の藤原清輔の解説が並記されます。
この内容から、前宮の「御室神事」が「風鎮神事」として都へ伝わったことが想像されます。『諏方大明神画詞』に「その儀式おそれあるにより詳細に延べがたし」とあるので、誤って風聞された可能性は充分あります。
ここに来て「源俊頼の歌」ですが、「木曽(東山道)では桜が咲いたそうだ。(強風で散らないように)風祝はしっかり祈ってくれたのだろうか」としました。
鎌倉後期の私撰和歌集『夫木集』です。
時代は下った江戸中期ですが、菅江真澄『来目路(くめじ)の橋』に、諏訪神社(現諏訪大社)の「大祓」を詠んだ歌が載っています。
この二首は「祝子」を使っています。「ほうり」では字余りになりますから、「ほうりこ」と読むべきでしょうか。
神宮寺区蔵『上社古図』には、「加佐無明神」の祠が「今ナシ」として描いてあり、その下に「風無神袋・風祝塚」と書かれた塚(古墳)のようなものが三基あります。ここでは、宮地直一著『諏訪史 第二巻後編』の図録から、その一部を転載しました。
場所は「小袋石」がある磯並社の川向かいですが、絵地図なので方角と場所は正確ではありません。諏訪史談会編『復刻 諏訪史蹟要項 茅野市宮川篇』では、「風無神袋(こうたい・こうてい)古墳」として載っています。
諏訪では、この祠と塚が風鎮(風祝)に関係があるという話があります。伊藤麟太朗著『新年内神事次第旧記釈義』の〔諏訪神社新論(一)〕では、持統天皇の勅使派遣について以下のように述べています。
「持統天皇(勅使)が押しつけた風の神を受け入れるために、祭場と風祝職を急きょ作った」というのが地元諏訪の見方でしょう。我流の言い方なら「ウチは(ミシャグジで)風とは関係ないけど、せっかく都から来てくれたから、風の神として祀ってもいいよ」となります。
宮地直一著『諏訪史第二巻後編』〔大宮御祭(御祭・大宮神司)〕から、参考になる部分を転載しました。
これは三月寅日の神事の解説ですが、長文の中から極一部を抜粋したので本意と異なるかもしれません。
その名前に惹かれて現地へ行ってみましたが、すでに消滅したのか、案内板もないので特定できませんでした。
その代わりに、「風無・かさなし」から転化したといわれる字(あざな)から名付けた「頭無(かしらなし)古墳」がありました。こちらは平成の発掘ですから案内板があります。しかし、欲しい情報は「古墳の名は古い地名から採った」だけでした。
この高部の扇状地のどこかに、「風なし」に関連する祠と塚があったのでしょうか。高部歴史編纂委員会『高部の文化財』から引用します。
これが、諏訪大社関連の本には必ず登場する「持統天皇が、水内の神と須波の神に勅使を出して天候の回復を願った」とある「風祭り」(の始まり)で、さらに「本宮の成立」理由までも“サラッ”と述べています。風祭りの場所は特定できませんでしたが、「風祝についてはこれ以上簡潔な文はない」としたので、これにてまとめとすることにしました。
そうは言っても、書きためた短文やメモなどがあります。せっかくですから、以下に紹介します。
『続 高部の文化財』に、大正9年に権祝の末裔矢島氏が著した『高部故事歴』が収録してあります。参考として、私の基準で「風祝」に関連したものを拾ってみました。「…」は、長文なので省略した部分です。
『高部の文化財』では「権祝系図」の一部が載っています。この系図では、6代目の「神氏」が初めて「風祝」を名乗ったことになります。
引用した『高部故事歴』(部分)では省略した「風祝」関連の文を、諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』収録の『矢島正宣書留』から書き写しました。
「寛和」は見たことも聞いたこともありません。年代表で確認すると、ズズーっとさかのぼった西暦1000年代を越えて、何と986年でした。大正になって書き留めた「寛和の書留」をどう評価(信用)していいのかわかりませんが、参考として載せました。
権祝の旧屋敷「風無神袋殿」跡と伝わる場所に、矢島氏が先祖の威光を讃えるために建てた石祠「御佐久知神袋神祠」があります。「奉造営・明治十七年十月・後裔矢島神臣正守」と彫られていました。
この前に立ち、(否定する材料もないので)半径100m以内に「風鎮め神事発祥の地(風無神袋・風祝塚)」があった、と見回しました。
茅野家文書に、嘉禎3年に書かれたとされる『祝詞段』と『根元記』があります。諸神勧請とあって神々の名前が列挙してある書ですが、前宮周辺の神々の中に「カサナシ」が見られます。
武井正弘著『年内神事次第旧記』を読むと、「春秋之祭に笠なしにて行烈し(行烈師・舞師)の御神事次第」とあります。
注釈では、「ここでは風無しではなく、文字通りの笠を被らない」としています。しかし、「秋の祭」は「荒玉・前宮・笠無、御手幣一束つゝ参」で、具体的な社名に続いての「笠無」ですから、本祭の後「笠無(加佐無明神)」へ参拝したのは確実でしょう。
「笠無神事」は、『造営帳』などからも上社と下社で行われたのはわかっていますが、具体的な神事の内容は明らかではありません。神事は国司の奉幣と行烈師の舞がメインで、諏訪神社では傍観する立場を貫き通したように思えます。最後になってズルイと言われそうですが、「笠なし・笠無を、『風無』とするのは無理ではないか」という話もあります。
神宮寺区蔵『上社古図』に、「大四御庵の下に“昔風祝御庵”と書かれている」ことが指摘されています。参考として、前出の『諏訪史第二巻後編』から「上社古絵図」の一部を転載しました。
諏訪の古文献には「風祝」の文字がまったく見られないので、この絵図が唯一の「風祝」ということになります。しかし、文字が小さく字体も異なるので、後世の書き込みと思われます。さらに「大祝庵がないので…大祝は風祝ではないか」ということですが、右下の折り目の部分に、不鮮明ですが「大祝庵」が二棟描かれています。